離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

僕のコラム!!!

【いじめ問題に思うこと】

 

いじめ 社会問題 になって久しい昨今、人間は未だにこの問題の答えを見つけられないでいる。

 

マスメディア は連日、いじめ により引き起こされた悲惨な結果を報じ、大人たちは明確な正解がわからないまま、ただ起こってきたことを漠然と議論する。

 

価値観が多様化する現代社会ではもはや、何が正義で何が悪なのかという明確な定義さえ、崩壊し、混沌とした思想の中で、大人でさえ漠然と生きている。

 

そんな社会の中で本当にこれからの未来を担う子どもたちを守っていくことができるのだろうか?

 

いじめ という行為が悪であるという認識を持っているのと実際にやらないということは別の問題だと思う。大人でさえ悪と認識している行為を自分の正義の名の元に行うケースは往々にしてある。

 

いじめは何故起こるのか?

 

何故いじめるのか?

 

何故いじめられるのか?

 

いじめという思想がどのように生まれ、どこから来たのか? そこを曖昧にしている限り、この問題は解決しないのだろう!

 

その思想は子どもたちから生まれたのではない。大人たちが創り上げた産物なのだ。

 

それを棚に上げて、起こってきた問題をどうのこうの言ったところで、ただのイタチごっこなのだ。

 

例えば、マスメディアがスキャンダラスな政治家を叩く。大人たちは無責任に意見し、議論する。馬鹿にし、嘲笑う。

 

それを見ている子どもたちはどう思うだろうか?

 

正義と悪という価値観が崩壊 したこの社会で、もし自分と違う価値観の人は馬鹿にし、嘲笑っていいんだと思ってしまったら...

 

例えば、バラエティー番組でも笑いを起こすという目的の元にそれぞれの役割で立ち振る舞っていたとしても、その上部だけの状況を見て、自分より劣っている人間は馬鹿にし、嘲笑っていいんだと思ってしまったら...

 

この情報化社会、テレビ、インターネット、SNS、僕らはどんな情報も簡単に手に入れる事ができる。それは、大人たちだけではない。子どももそういう状況に晒されているのだ。

 

この状況の中で、大人が子どもがキャッチする情報にフィルターをかけることは不可能だと思う。

 

ならば個人でその溢れ出す膨大な情報から必要な情報だけをピックアップするしかない。

 

しかし、発達途上で判断力の乏しい子どもたちにそれを課すことあまりにも酷だ。

 

だからこそ僕たち大人がもっと子どもたちに寄り添い、どんな情報を得て、それをどう感じているのかを理解し、教育するべきではないだろうか。

 

そして、僕たち大人が子どもたちの手本となる精神や行動を示すべきではないだろうか。

 

その為にも、僕たち大人が、漠然とした生き方から判然とした生き方にシフトチェンジする必要性を感じずにはいられない。

 

子どもたちの教育には、家族、学校、地域社会の連携が不可欠だと思う。しかし、個人の自由な生き方が尊重される現代社会では他者の人生に関わらないという風潮が強まり、結果人と人との関わりが希薄になってしまっている。

 

人は他者との関わりの中で学び、成長する。それは 知識的な成長ではなく精神的に成長 するということ。

 

人と人との関わりの中で人は人の心を学ぶ。それは人としてとても大切な事だと思う。

 

これからの未来を担う子どもたちが多くの人々と巡り逢い健全な精神と豊かな感性を育み、素晴らしいと感じられる人生を歩めるよう願って止まない。