離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

僕の教理研究⑤

皆さんこんにちは!!

 

僕です!!!

 

今回は僕の教理研究シリーズ第5弾!!

 

テーマは  理  です!!

 

天理教の教理で欠かせない言葉、教えの 真髄  

それが  理  だと思います!!

でも教えの中で1番曖昧な概念も 理 だと僕は感じます!

 

皆さんはどうでしょうか?

 

分かっているようでイマイチわかっていない!そんな 理 について今回は考えていきたいと思います

 

目次

 

 

【理】

 

天理教のお話で絶対でてくる言葉、もうこの言葉さえ言っておけば天理教の話しっぽく聞こえる。それが 理 という言葉です。

[個人の偏見がかなり入っています(笑)]

 

でも 理って何ですか? って突っ込まれるとちょっと困ってしまいます。一時期は 神様から貰える力です。 って説明してたけど、それも最近 ちょっと違うかも!? って思ったり...

 

理 って言葉はとても使い回しがいいんです。その理由を考えてみて辿り着いた答えは、概念が曖昧だから!! です!

 

でも教えの 真髄であり核 である 理 を曖昧に解釈してちゃ〜ちょっち まずい ですよね!!

 

理 の言葉の意味は、

 

物事の筋道。条理。道理。

 

わけ。理由。

 

だそうです。

 

 

天理教の教えは心(精神)の在り方、そしてその精神からくる行いが大切である。と説かれています。

 

親神様 は人間の陽気ぐらしをする状をみて神も共に楽しみたいとの思いから世界と人間を御創造されました。

 

おふでさき では もと という言葉が頻繁に使われています。

 

このよふのにんけんはじめもとの神

たれもしりたるものハあるまい(3-15)

 


いまゝでにない事はじめかけるのわ

もとこしらゑた神であるから(3-18)

 


いまゝでもしんがくこふきあるけれど

もとをしりたるものハないぞや(3-69)

 


このよふハにぎハしくらしいるけれど

もとをしりたるものハないので(3-92)

 


このもとをくハしくしりた事ならバ

やまいのをこる事わないのに(3-93)

 


いかほどにみゑたる事をゆうたとて

もとをしらねばハかるめハなし(4-81)

 


これからわ高山にてもたにそこも

もとはじまりをゆうてきかする(4-121)

 


もとなるハちいさいよふでねがえらい

とのよな事も元をしるなり(5-43)

 


このよふのもとはじまりのねをほらそ

ちからあるならほりきりてみよ(5-85)

 

いくらか抜粋してみました!

 

この もと という言葉には 人間をご創造された 親神様 の意味、親神様 が人間を御創造された理由の他に 天の理 という意味も含まれているのではないかと僕は解釈しています。 

 

おさしづでは

 

さあ/\だん/\の事情、又だん/\の事情もうこれ一時事情、さあ一つ第一と言うて尋ね出る処、身上不足なりたる処、いかなる処、だん/\これまで楽しみ楽しんだる処、身上事情迫りたる。事情大変なる事情なれど、一寸なあ/\だん/\さしづ及んだる。一寸踏ん張る/\。もうどうであろ、さあどうやなあ。中に同じ理、万事楽しみ、これも楽しみあれも楽しみ、自由と言う。これ一つしっかり聞いてくれ。一時何時とも分からんなれど、一寸踏ん張る、いかなるも踏ん張る。皆これまで聞いて通りて居るであろ。しようと思うて成るものやない、しようまいと思ても成って来る。これどうしようと思うても成らん事情聞き分け。難しいさしづなれど、一寸踏ん張る。一寸踏ん張るのやで。

(明治二十六年三月十五日 朝)

 

さあ/\これ聞き分け。前々に天然自然と諭したる。天然自然というは、誰がどうする、彼がこうしょうと言うても出来ん。独り成って来るは天然の理。

(明治三十三年五月三十一日)

 

といわれています。

 

この世で起こってくる事は 親神様の支配の下に成ってくる。

 

この事から僕は 理とは法則である! と解釈します。親神様 からいただける特別な力ではなく、親神様が支配する法則!!

 

その法則の中で僕たちは生かされている。その法則の中でどう生きるかも自由。

 

良き法則に従えば良き状に、悪しき法則に従えば悪しき状に 成ってくる。

 

それはそれぞれの人間の心(精神)一つで変わってくる。

 

また成ってきた状から良き法則と捉えるのか悪しき法則と捉えるのかも自由。

 

成ってきた状を喜べば良き法則となり、不足すれば悪しき法則となる。

 

だから心(精神)の在り方とその心(精神)からくる行いの大切さを説かれているのだと解釈します。

 

【おつとめ】

 

おつとめとは元初はじまりにおける人間・世界創造に際しての親神様の御守護と理を体現したものであると理解します。

 

つまり、おつとめをつとめるということは、親神様の御守護と理の中に身を置くと言えると思います。

 

それは陽気ぐらしの法則を体現しているということ。おつとめをつとめることによって陽気ぐらしの法則に無条件に乗っている。

 

そう考える時、おやさまが25年の命を縮められてまで伝えられた親心を感じずにはいられません。

 

親神様、おやさまが 陽気ぐらしをさせてやりたい との思いから残されたおつとめを日々しっかりとつとめさせていただきたいと思います。

 

【徳積み】

 

徳を積む ということは 親神様 の支配の下に成ってくる 法則 を感じられる心になることだと解釈します。

 

その為にはまず 親神様 の御守護に気づかなければなりません。それが 心の成人 だと考えます。

 

そして、心の成人により 親神様 の御守護に気づき、そのご恩に報いる行為が ひのきしん です。

 

つまり、ひのきしん の中に徳は積まれていくと考えます。

 

【理づくり】

 

理づくり という言葉もよく使われる言葉だと思います。しかし 理 親神様 の支配の下に成ってくるものであって、人間が創れるものではないと考えます。

 

また 理づくり という言葉自体、三原典には使われていません。なので元々教理にない言葉であると理解します。

 

理 という概念の曖昧さから生まれた言葉であると推察します。

 

【最後に】

 

今回は 理 について僕なりに思案し考えをまとめてみました。とりあえず今の段階で1番しっくりきている解釈です。

 

天理教では概念が曖昧な言葉がかなりあります。元々ははっきりした概念があったのでしょうが、長い年限の中で曖昧になったのでしょう。

 

しかし曖昧なままでは親の思いを悟ることは難しいと思います。また教理が捻じ曲がっていく恐れもあります。

 

おやさまは教えを説くにあたり、言葉選びもかなり苦心されていると感じます。その親の思いをしっかりと受け止められるようにお互いに日々教理の研鑽、そしてその実践に励ましていただきましょう!!

 

また今回の僕の解釈が正しいわけではないということも理解していただきたいと思います。

 

皆さんの教理の研鑽の一助になれば嬉しいです。

 

御拝読ありがとうございました。