離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

水曜日の昼下がり!!

現代人ってバランス考え無い人が多いですよね。

 

なんか自分がやりたい事をやりたいようにやるって風潮が凄く強いと感じてるんです。

 

教育も個人の意思や価値観を尊重して、能力を伸ばす方向性へとシフトチェンジしてるけど、それを続けてて世界って良くなっていくのかな?と思ったりします。

 

例えば、野球チームがあってチームを成立させるためには9人以上必要なんですけど、9つポジションがあって役割とか特性とか全て違うんですよね。

 

今の時代って、9人のメンバーがいて、

 

ピッチャーやりたい人〜

 

って言って、9人みんなが手を挙げたらみんなにピッチャーをさせようとする時代だと思うんですよ。

 

でも実際、そんなことしたらチームとして成り立たないです。でも今の社会ってチームを成り立たせようとするよりも、個人の意思を過剰に尊重するからチームが成り立たない。

 

チームが成り立たないとピッチャーというポジションさえ成立しないから、かなり揉める。

 

それってわがままになると思うんですよね。

 

ひと昔前は、監督が個人の力量や資質を判断して、各ポジションに振り分けてたんですよね。

 

だから、チームは成立してたし、各ポジションも成立してた。確かに、やりたくないポジションをやらされてる人の方が多いかもしれないけど、チームバランスを考えて納得してた。

 

それって協調性だと思うんです。

 

現代社会はやりたい事をやる事がしあわせだって風潮がかなり強いと思うんですよね。それはいろいろ情報を得る中で自分がやりたい事をやってる人たちの情報を得て、やりたい事をできてない人たちが、羨ましいと思う。

 

そして、自分を自分の子供たちに投影して、自分と同じ思いをさせたく無いと思うからだと思うんです。

 

でも実際は、やりたい事をできている人たちよりできてない人たちの方が断然多い。でもだからこそ世界は成り立っていると思うんです。

 

人がやりたがらない事でも、世界の流れを円滑にする為に必要な事ってあると思うんです。

 

そういう事をやってくれる人たちがいるから世界は成り立っている。世界が成り立っていないと自由も権利も成り立たない。

 

じゃあ、やりたい事ができてない人たちはしあわせになれないのか?

 

野球でもポジションが違えば、必要な知識や技術は違います。そしてその中にそのポジションでしか感じられない楽しみとか喜びを感じる事ができると思うんです。それに気づけばそのポジションが好きになると思うんですよね。

 

だからやりたい事をできてない人たちもその事をやる中でその事をやる事でしか感じられない楽しさや喜びを感じる事ができればしあわせになれるんじゃないかなと思うんです。

 

強いチームを作っていくには、それぞれがそれぞれの特性や資質を遺憾なく発揮できるポジションに配置する必要があると思うんです。

 

人によってピッチャーでは一流になれるけど、ショートでは三流止まりとか、キャッチャーでは一流になれるけど、センターでは二流止まりとかあると思うんです。

 

努力で特性や資質は埋められるって考え方もあるけど、特性や資質がある人が努力して到達できるところと、特性や資質がない人が努力して到達できるところはやっぱり違うと思うんですよね。

 

特性や資質がある人ない人がいるって事じゃなくて、持ってる特性や資質の種類が違うって話しです。

 

でも現代社会はそこもそんな重要視してないと感じるんです。特性とか資質を度外視して、意思や価値観を尊重する。

 

意思や価値観を尊重することももちろん大切ですけど、それを重要視して、特性や資質に配慮しないチームはやっぱりそこそこのチームにしかならないんですよね。

 

そこそこのチームは心地よいけどなんか物足りない感をいつも感じてモヤモヤする。

 

それってやっぱりベストじゃないからだと思うんです。

 

やりたくないっていう感情って結局先入観だと思うんです。根拠がかなり曖昧ですよね。でもやりたくないって先入観があるからやってて楽しくない。

 

その事が楽しくないんじゃなくて、その事の中にある楽しいところを探そうとしないから。

 

結局、しあわせってそういう事なのかもしれないなと思ったり。

 

要は、その事をする事でしあわせを感じられるんじゃなくて、その事の中にある楽しさや喜びを探そうとする精神があるからしあわせを感じられるのかなと思ったり。

 

そんな事に想いを巡らせる水曜日の昼下がり。