上杉治憲
皆さんこんにちは!!
今回は僕が日本人で1番尊敬する人物 上杉治憲 について記します。
その名は日本のみならず、世界に知れわたり、元アメリカ大統領 J・F・ケネディーやビル・クリントンに
もっとも尊敬する日本人政治家 !!
と称賛される日本史上屈指の名君!!
是非皆さんにも知ってもらいたいと思います。
目次
出生〜結婚
上杉治憲 は寛延4年7月20日(1751年9月9日)、日向国(宮崎県)高鍋藩(たかなべはん)藩主・秋月種美(あきづきたねみ)、妻、春姫の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれます。幼名は松三郎。
実母が早くに亡くなった為、一時祖母の瑞耀院(豊姫)の手元に引き取られ養育されました。幼少の頃より、非常に優秀だったらしく、
我が孫ながらこやつ、なかなか賢くね!?
と思った 祖母の瑞耀院が当時男子のいなかった米沢藩藩主 上杉重定 に娘の婿養子にと勧めたのが縁で、宝暦10年(1760年)重定の娘 幸姫 と結婚し、上杉家の養子となります。
明和3年(1766年)に元服。のちに 治憲 と改名し、明和4年(1767年)に家督を継ぎます。
当時17歳。
財政難
上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積する一方、初代藩主の意向に縛られ、石高の割に仕える家臣の数が多く、【15万石(実高は約30万石)、家臣6000人】また召し放つこともほぼせず、家臣たちも上杉家へ仕えることを誇りとして離れなかったため、他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高く、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていました。
加えて農村の疲弊や、宝暦3年の 寛永寺 普請による出費、宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を 直撃!!
名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、
もう無理、無理、無理!! つって
藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどだったそうです。
財政再建
新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい 竹俣当綱 や財政に明るい 莅戸善政 を重用し、
こんなんやってたら藩、潰れまんで!!
つって
先代任命の家老らと バチバチ にやり合います。
そして 経費削減 に着手します。
それまでの藩主では1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行います。
しかし、まだ若かった 治憲 は対外的な根回しに疎かったらしく、幕臣への運動費 を計算に入れておらず、結果、明和6年(1769年)に江戸城西丸の普請手伝いを命じられ、多額の出費が生じます。これにより財政の再建は遅れる事になりました。
天明年間には天明の大飢饉で東北地方を中心に餓死者が多発します。
治憲 は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行いました。
また、曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせました。
安永2年6月27日(1773年8月15日)、七家騒動 が勃発します。
改革に反対する藩の重役たちが、
ちょっと治憲さん、こいつらこんなんしてるんすよ!!
つって
改革中止と改革推進の竹俣当綱派の罷免を強訴しますが、
しょうもない事すな!! つって
これを退けます。
治憲 のこれらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の 斉定 時代に借債を完済します。
晩年
天明5年(1785年)に家督を前藩主・重定の実子(治憲が養子となった後に生まれた)で治憲が養子としていた 治広 に譲って隠居しますが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導しました。
治憲 が 次期藩主・治広 に家督を譲る際、3条からなる藩主としての心得、伝国の辞(でんこくのじ)を申し渡します。
そこには
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
(国は先祖から子孫へ伝えられるものであり、君主の私物ではない。)
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
(国民は国に属しているものであり、君主の私物ではない。)
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
(国・国民のために存在・行動するのが君主であり、“君主のために存在・行動する国・国民”ではない。)
右三条御遺念有間敷候事(この三ヶ条を心に留め忘れることなきように。)
天明五巳年二月七日 治憲 花押治広殿
机前
と記されいます。
伝国の辞 は、上杉家が明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承されたそうです。
隠居当初は重定隠居所の偕楽館を住まいとしますが後に米沢城三の丸に餐霞館が建設されると、そちらに移り住みます。
享和2年(1802年)、剃髪し、鷹山 (ようざん)と号します。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われているそうです。
文政5年3月11日(1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去。享年72(満70歳没)。
人物エピソード
正室の幸姫(よしひめ)は 重定 の次女(姉妹は夭折)で 治憲 の2歳年下、脳に障害、発達障害があったといわれているそうです。
幸姫は30歳で死去しますが、治憲 は幸姫を邪険にすることなく、自ら側室をとろうとせず、晩年まで雛遊びや玩具遊びの相手をし、2人は仲睦まじい夫婦だったそうです。
家督を譲ってからは米沢で隠居生活を送り、幼少時から娘と顔を合わせていなかった 重定 は、幸姫の死去後、娘の遺品を手にして初めてその状態を知り、不憫な娘への 治憲 の心遣いに涙したそうです。
後継者が絶える事を懸念した重役たちに勧められ、1770年(明和7年)に10歳年下のお豊の方を側室に迎え、長男・顕孝と次男・寛之助の2人の息子を授かりますが、早くに死去し、お豊の方以外の側室を迎えることもなかった為、治憲 の、血筋は途絶えてしまいます。
治憲 は35歳の若さで家督を 治広 に譲りますが、その理由は、重定 が存命中に 治広 に家督を継がせる事で養父を安心させたかったのではないかといわれています。
治広 には同母兄の 上杉勝熙 がいましたが、それを差し置いての後継指名であったそうです。
身体は元来丈夫で大病でも病床についたことはなかったようです。
着衣は羽織、袴から下着に至るまで全て木綿のものを着用し、食事は一汁一菜を基本として、朝食は粥二膳と漬物、昼食や夜食に千魚などの肴類を添えて、うどんやそばを食べていたそうです。
愛煙家ではありましたが、酒は飲まず、冬になると甘酒を一椀ずつ飲み、また薬用酒はときどき飲んだそうです。
有名な、
為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり
の歌は 伝国の辞 と共に次期藩主に伝えられたとされています。
武田信玄の名言、
為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき
を模範にしたものだそうです。
天明7年(1787年)8月、実父の秋月種美の危篤の報を受けると、江戸へ出立し、長者丸(品川区上大崎)の高鍋藩邸へ日参して30日間かかさず看病を続け、臨終を看取ったそうです。
その直後、江戸で服喪中に今度は養父の重定が重病との報が入ると、実父の四十九日法要後すぐさま米沢に帰国、翌年2月までの80日間看病を続け、一時危篤状態に陥った時には数日間徹夜で看病し快癒させたそうです。
手紙のエピソード
ある日、老婆が干した稲束を取り入れ作業中に、夕立が降りそうになり、手が足らずに困っていると、通りかかった2人の武士が手伝ってくれた。
餅を持って御礼に行きたいと武士たちに言ったところ殿様お屋敷(米沢城)の北門の門番に話を通しておくからと言われ、餅を持って御礼に行くと、通された先に居たのは藩主治憲だった。
お侍どころかお殿様であったので、腰が抜ける程たまげ果てた上に、その勤勉さを褒められ、褒美に銀5枚まで授けられた。
その御恩を忘れず記念とするために、家族や孫たちに特製の足袋を贈ることにしたという内容の手紙があるそうです。
手紙は現在、米沢市宮坂考古館にて所蔵、展示されているそうです。
最後に
皆さんいかがでしたか?
政治家としての手腕だけでなく、愛妻家で親孝行で身分に捉われず、全ての人に優しい、そんな人間的な魅力に溢れる 上杉治憲 を僕は尊敬していますし、こういう人でありたいと思います。
まだまだ、未熟ですが日々精進です。
ご拝読ありがとうございました。