離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

身体はかりもの!!

皆さんこんにちは!!

 

今回は「かしもの、かりものの理」について考察します。


この かしもの、かりものの理 天理教の最も重要な教理です。この教理が理解できれば、天理教の教理の8、9割は理解できたと言っても過言ではないくらい、天理教の全ての教理はこの かしもの、かりものの理 を軸に展開されています。

 


天理教聖典、三原典の一つ おふでさき の中では、

 

めへ/\のみのうちよりのかりものを
しらずにいてハなにもわからん(3-137)

 

(自分の身体が「かりもの」だと理解していなければ、どんな事を聞いても理解できないよ。)

 

と歌われています。

まさに天理教の教えの 真髄 と言っても過言ではない。それが かしもの、かりものの理 なんです。


天理教では、人間の身体は親神様からの「かりもの」であると考えられています。確かに人間の身体は 自分の力でコントロールできる範囲 は限られています。自分で心臓の動きをコントロールできはしないし、大事な時に便意をもよおして大変な目に遭った経験は誰しもあるのではないでしょうか?そう考えると人間の身体は自分のものではないという事は、何となく納得できなくもないです。


では、何故神様は「人間に身体を借す」と言うシステムにしたのか を僕なりに考察します。

 


人間には身体の働きに欠かせない3種類の神経があります。

 

一つ目は運動神経、二つ目は反射神経、そして三つ目が自律神経 です。運動神経と反射神経は行動を司る神経であり、自分でコントロールできますが、自律神経は生命を維持する為に必要な機能を司る神経であり、自分でコントロールする事はできません。しかし、言い換えれば、自律神経が自分でコントロールできないからこそ人間は日々の生活を余裕を持って営む事ができているのではないかと思うのです。

 

 

もし、人間の身体が自分のものであったなら、僕たちはこの自律神経の働きまでも自分でコントロールしなければならない事になります。つまり、自分で意識して心臓を動かさなければならないし、そうなると寝る事はまず不可能です。意識が無くなった時点で心臓は止まってしまうんですから。。。
食事をした後は、「ちょっと消化吸収するから」と言って集中する時間が必要になります。お酒を飲む度にいちいちアルコールを吸収して分解する為に集中する時間が必要な飲み会なんて、何の盛り上がりもありませんよね。もし、いちいち意識して身体の生命維持をしなくてはならないならば、生命を維持する事が忙し過ぎて、他に何かをする余裕すらないと思います。

 

無意識のうちに身体が勝手に心臓を動かして、身体中に血液を巡らせてくれ、体温を調節してくれて、食事をしたら何も考えなくてもきちんと消化吸収してくれて、お酒を飲んでも無意識にアルコールを吸収して分解してくれるからこそ僕たちは自分の人生において色々な事にトライし、楽しむ余裕が生まれているんじゃないかなぁと僕は思います。

 


なので、神様が人間に身体を借すというシステムにしているのは、身体の維持管理を神様が行う事により、自分たちの人生に集中させる為ではないか と考えます。

 

「身体は維持管理してあげるから、しっかり人生をエンジョイしなさい。」

 

という事だと思います。

 

ただ、「かりもの」であるという事はいつか「返す」時が来るという事です。そして、いつ返すかの選択権は借し主である神様にあります。人間はそれがいつなのか分かりません。どんなタイミングでどのようにお返しするのかは神様の意図に委ねられています。つまり今生きているこの時間は有限です。お互い有意義に使いたいですね。

 


因みに今まで、人間の身体は約60兆個の細胞が新陳代謝をする事により形成されているとされていましたが、5年くらい前に、実は約60兆個ではなく、約37兆2000億個であるという論文が発表れたそうです。しかし、この事実はまだ認知度が低いそうです。一度広まった定説を覆すのはいつの時代も難しいのですね。いずれにしても 天文学的な数字 である事は間違いなく、人間の身体は、本当に素晴らしいシステムにより維持管理されている事は間違いないです。まさに神業です。余談ですが、新陳代謝という言葉は、文豪 夏目漱石が造った造語だそうです。

 

 

神様は人間に人生をエンジョイさせる為に運動神経と反射神経は自分たちの意識でコントロールできるようにしてくれています。この二つの能力をどう使うかを決めるのは自分です。この場合の「自分」とは 精神 つまり 心 の事です。

 

天理教では魂に身体を借りていると考えます。そして魂は精神、心を司るものです、この事を「心一つが我の理」と言います。つまり、心は自分のものとして自由に使う事ができるという事です。


「かしもの、かりものの理」「心一つが我の理」は二つで一つです。それは人間は肉体と精神、二つ一つでこの世に存在しているからです。

 

天理教では相対する二つの要素が一つの現象を起こしているというのが基本的な考え方です。

 

僕たちはどう生きていくかを自分で「選択」できます。神様は陽気ぐらしをする状を見たくて人間を創ったけれど、その陽気ぐらしをするかしないかの選択人間に委ねています。それは、「いつの日か人間が自分たちで神意を悟り、陽気ぐらし世界を実現してくれると信じているから」だと思います。人間が自らの意志で創る「陽気ぐらし世界」こそ神様の望みなんだと僕は思います。

 


現代日本は、歴史上類を見ないくらい、豊かで平和な国になりましたが、それでも様々な問題は後から後から湧いてきます。
いじめや差別、パワハラモラハラなどの社会問題は多くの人々を悩ませ、自ら命を絶つ人たちまでいます。

 

豊かさや平和は良き事ですが、それと比例するかの様に人間の心は怠惰で無機質になっているような気がします。

 

人間は皆、しあわせになる為に生まれてくると思います。そして、そのしあわせは人間お互いのほんの少しの気遣いや思いやりで感じれるものなのではないでしょうか。

 

せっかく神様が維持管理してくれているこの「かりもの」の身体。どうせなら自分や周りの人たちがハッピーになれるような使い方ができる心でありたいですね。とは言ってもなかなかそんな心使いができないのもまた人間です。何故そうなのかには原因となる要素があるのですが、今回は割愛します。

 

今回は「身体はかりもの」と題して、「かしもの、かりものの理」について考察しました。

 

ご拝読ありがとうございました。