離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

嘘が嘘になるのは嘘が嘘と認識された時!!

皆さんこんにちは!!

 

今回のテーマは ズバリ「です。

 

皆さん 嘘 を吐いた事はありますか?

僕はあります。

 

天理教 では さんさい心 なんて言いって子供は素直の 代名詞 的な扱いがされますが、意外に子供は 嘘 を吐きます。でも子供の嘘は可愛いですよね。何でそう思うのでしょう。それはたぶん 分かりやすい からです。子供の嘘は 嘘 と分かりやすいから 可愛い と思えるのだと思います。

 

ところで皆さん 嘘 が嘘になる条件を考えた事がありますか?

 

嘘 が嘘になる条件、それは 嘘 が嘘だと認識された時です。

 

例えば、実は ホームレス のおっちゃんを、大企業の社長 と紹介されたとします。その時紹介された人の 認識 は 大企業の社長です。そのまま 真実 を知る事もなく別れ、その後一生会う事もなく人生を終えた場合、あの実は ホームレス のおっちゃんはその人の中では 大企業の社長 です。この場合、その人の中ではそれが 真実 です。しかし、実は ホームレス だと知っている人にとってはそれは 嘘 になります。

 

嘘は嘘と認識されなければ 嘘 にならないのです。

 

考えてみてください。僕たちはこの世界で起こる事や見るものを何を基準に 真実 と 嘘 に仕分けしていますか?もちろん色々な要素を総括して仕分けしているでしょう。ではその仕分けするのに用いた要素は本当に間違いないものですか?そもそもこの世界は 真実 ですか?この世界が実は 嘘 なのではありませんか?

 

これを考え出すとキリがないし 不信感 しか湧いてこなくなりますよね。だから僕たちは区切りをつけます。自分を信じるということで。

つまり、真実 か 嘘 かは自分自身の認識により仕分けされているという事です。自分が 真実 だと認識したものは真実で、嘘 と認識したものは嘘になるんです。それが本当に 真実 なのか 嘘 なのかはそれ程重要でもないのです。嘘 でも 真実 だと認識すれば真実だし、真実 でも 嘘 だと認識すれば嘘になるんです。

 

言い換えれば、嘘 を 真実 にする事もできるし、真実 を 嘘 にする事もできます。

 

よく 嘘は人の信用を失う と言いますが、それは、嘘 を吐くからじゃなくて、嘘 を 真実 にできないからです。吐いた 嘘 真実 にしさえすれば 信用 を失うことはまずないです。

 

僕は 不幸になる真実 よりも 幸せな嘘 の方が価値があると思っています。誰一人幸せを感じられない 真実 を知るより、みんなが幸せを感じられる 嘘 の中にいる方が絶対に良いと思いませんか?だってこの世界の存在自体が 真実 か 嘘 かも証明できないのなら、みんなが幸せを感じられる方を 真実 にしてしまった方が生きやすいですよね。僕はそう思います。

 

例えば、あなたの凄く中の良い 友人 の浮気現場を目撃したとします。その友人には子供もいて、家族はとても幸せです。しかし、友人は浮気をしているという 実 があります。あなたはその友人の 奥さん とも親しい。あなたはその 真実 を友人の奥さんに伝えますか?

 

僕は伝えません。何故ならその 真実 で壊す必要のない幸せな家庭を壊してしまう可能性があるからです。確かに、浮気は人間道徳的に良い事とは言えません。しかし、その責めを負うべきはその当事者であって、奥さんや子供には関係のない事です。例え浮気が悪い事だとしても、それが 幸せな家庭を壊していい と言う理由にはならないと思います。

 

現代社会は 真実を知る事こそ正義 という価値観が トレンド化 しています。だから 真実 を知る事で不幸になる人たちが増えるような事でも知ろうとします。しかしこれはある意味、自分から 不幸 になりに行っているようなものだと僕には思えます。

 

こんな事を言っている僕が信仰している 天理教 の神様が嫌いもの。それは 嘘 です。この場合の 嘘 は神様が嘘と認識したものです。つまり、自分がどんなに 真実 だと思っているものでも、神様が 嘘 と認識すれば嘘なのです。逆に言えば自分が 嘘 だと認識していても神様が 真実 として受け取ってくれる場合もあります。

 

例えば、あなたが お道 の精神で日々の生活を過ごす事で周りの人たちから 優しくて素敵な人 と思われてる。でも本当の自分はそんなに優しくもないし素敵でもない。これはある意味 嘘 と認識できなくもないでしょう。しかし、陽気ぐらし を望まれる 親神様 がこれを 嘘 と認識されるかどうかは分かりません。もしその姿を貫き通す事ができて、周りの人たちが一生あなたを 優しくて素敵な人 と認識するのであればそれは 真実 であるし、であるならその 嘘 を神様は 真実 として受け取ってくれるのではないでしょうか。

 

真実 と 嘘 はコインの表と裏です。そしてどちらを表にしてどちらを裏にするかを決めるのは 自分 です。要は 幸 も 不幸 も自分次第です。

 

あなたはどちらを選びますか?

 

 

 

 

 

 

 

神様が為さる事、人間が為している事!!

皆さんこんにちは!!

 

前回の記事で、この世で起こる事は神様がなさっている事ではなく、人間の心(精神)が映し出されているだけです。人間がその物事が起こるような心で日々を過ごしているから、そうなる 理(法則)が働いて、起こってくると書きました。

 

今回は、この事をもう少し掘り下げて、練り練りしたいと思います。

 

因みに前回の記事はこれです。

                                        ⬇︎

https://captainace.hatenadiary.com/entry/2020/05/21/131132

 

是非読んでみてください。

 

教内でこんな言葉を聞いた事はないですか?

 

全ては神様のなされる事だから間違いはない。

 

皆さんはこの言葉をどう感じますか?

 

僕はこの言葉に 違和感 を感じます。確かに人間の全く関与できない事象はあります。

 

地球環境の維持管理、天気の変化や地震津波などの自然現象、人間の誕生や終焉など世界の営みの中で起こってくる事は、人間にはどうすることもできないし、まさに 神の御技 と言えると思います。

 

しかしながら、人間界で起こってくる事、人間個人や団体に起こってくる事や成ってくる姿は、人間たち自身が自らそう成るような 精神 と 言動 をしているからではないかと思うんです。

 

そう思う僕のイメージをお届けします。

 

親神様 がこの世と人間を創造した事は 天理教の信仰者 なら周知の事実だと思いますが、この 創造 の意味は 形造った という意味と システムを構築した という意味があると思っています。

 

つまり、この世の 存在 とその 存在 の中で起こる事に関する 法則(理)を創り、それにより、世界が維持管理されて、親神様 が望む世界になるように システム化 したという事です。

 

教内では、「親神様 は日夜休む事なくあちこち飛び回ってお働きくだされている」というお話が スタンダード ですが、僕のイメージは 親神様 はモニタリングルーム見たいなところで ただモニタリングしているだけ だと思います。夜も8時間キッチリ寝てると思うし、なんならたぶん昼寝もしています。何故なら 親神様 の主な仕事は 世界創造 の時に終わっているからです。後は 人間が陽気ぐらし世界を実現 してくれるのを待つだけですし、そうなるよう システム は プログラム して 構築 しているわけですから、そんなに忙しい事もたぶんないです。

 

そんな 親神様 にも仕事をしなければならない時があります。それは、親が働く理 が 発動 した時です。しかし、親神様 が直接人間に働きかける事はできません。おそらく 神様 と 人間 の存在の性質が違い過ぎるからです。なので何かを 経由 して 間接的 に働きかける方法を取っています。そしてその 経由 できる存在が おやさま です。つまり、おやさま がいなければ 親神様 は人間に働きかける事ができないのです。だからこそ、おやさま は 御存命 でなければならないのだと思います。

 

しかし、現在は おやさま も現し身を隠されていますから直接働きかけることができません。そこで誕生したのが よふぼくシステム です

 

親 が直接働きかける事ができない現状においてこの よふぼくシステム こそ親が人間に働きかける事ができる唯一の方法です。そう考えると、よふぼく の在り方は現在のお道の 肝 であると思います。身が引き締まる思いがしますね。

 

因みに おやさま が入り込むという表現をしますが、僕はこの表現にも少し違和感です。おやさま は現し身を隠されてはいますが、やはり 御一人 である事に変わりはありません。空が飛べるとしても よふぼく が おさづけ を取り次ぐ度にそこに行って入り込む事は 物理的に不可能だと思います。

 

(物理的という表現が適切かどうかは微妙ですが。。。)

 

僕は おさづけの理 を拝戴する時に、おやさま と その人 を繋ぐ何か(例えばICチップ 的なイメージのもの)が身体に入り込むのではないかと思います。そして 親に働いてもらいたい と願った時、その 何か が おやさま と 共鳴 して 親の(働く)理 により神様の力を取り次ぐ事ができるのではないかと考えます。

 

この 共鳴 する条件は、

 

  • 親の働きを願った時。
  • 誠真実を体現できた時。
  • 充分な徳がある事。

 

などの一定の条件が決められています。なので よふぼく はこの条件を把握し、常にその水準を満たす事ができるよう、努力する必要があるんだと思います。

 

話しがちょっとそれた感じになりましたが、この世界は 人間が陽気ぐらし世界 に向かうように システム化 されていて、それに沿わないと修正するような 法則(理)が働くように プログラム されている。その プログラム が発動する条件は 人間の精神(心)や言動 によると考えます。そう考えるならこの世で起こる事や現れる姿は 神様がなさる事 ではなく、人間が成している事 と言えるのではないでしょうか。

 

僕はそう 理解 しています。

 

おしまい!

 

 

 

 

 

 

 

失敗+ストレス=成長

皆さんこんにちは!!

 

今回は、「失敗とストレスと成長」の関係性 について考察したいと思います。

 

生きていく中で 後悔 の念にかられる事は、誰しも多かれ少なかれあるのではないでしょうか?それは、失敗した という意識が呼び起こしている感情ではないかと思います。

 

順風満帆、何の問題もなく、今まで生きてこられたと自信満々に言える人は本当に稀だろうと思います。

 

後悔 とは決断するからこそ生じるものであり、人生は決断の連続。そう考えると 後悔 は人生には付きものなのではないかとも思えます。

 

失敗したという過去は、どうしようと変えられませんよね。ならば僕たちは、その失敗を糧として 成長 する事しかできないし、それにより より良き未来 を拓けていけると思うんです。

 

その為には、自分とその失敗の原因の関係を解明して改善する作業が必要になると思います。

 

心理学では、失敗の捉え方によって人は 自罰型、他罰型、無罰型 の3種類の 性格 にカテゴライズできるそうです。

 

自罰型 は、失敗を自分のせいだと思い込んで必要以上に落ち込むタイプ。

 

他罰型 は、失敗を他人のせいにして責任転嫁をするタイプ。

 

無罰型 は、失敗を誰のせいにもせずにその辻褄を合わせるタイプ。

 

失敗 を自分の成長の糧とするには、自分の 責任 を自覚し認める必要があります。そう考えると 他罰型 や 無罰型 は 自責 を自覚できない性格ですから、自覚できる性格に改善する必要があると思います。そう考えると 自罰型 は 自責 を自覚するというベースが性格に組み込まれてわけだから、目指すべきは 自罰型 だと思います。しかし、自罰型 は失敗を自分のせいにする事で、安心 してしまい 原因 を解明する作業をしないからただ 漠然と自分のせい と思い、結果自分はダメな人間、役立たず、存在する意味がないと思い込み、自信を失って生きていく活力も低下してしまう可能性があるんです。

 

そうならない為に、物事 が成ってくる仕組みをまず理解する必要があると思います。

 

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心理学の 自罰型、他罰型、無罰型 という考え方に当てはめると、上図のような関係性が成り立つのではないかと思います。この世で起こってくる事(結果)は、自分の関与した部分の影響はもちろんあると思いますが、それだけで全てが決まるというわけでもないと僕は思っているんです。自分の関与した部分(自責)と他者が関与した部分(他責)と第三の力(運とかツキ)が関与した部分の交わるところが世の中に現れてくる姿だと僕は考えています。

 

もっとザックリ分けると、この世で起こる物事は自分の関与した部分とそれ以外の力が関与した部分が交わって起こってきていると思っています。

 

なので、起こってきた結果が 失敗(と認識できる物事)であったとしても、それは自分 だけ のせいではなく、いろんな要因が関与して成ってきた事であるので、必要以上に落ち込む必要はないんですよね。その失敗から自分の関与した部分における結果の原因を解明し、次に生かすことが、自分を成長させ、より良い未来を拓く為には大切であり、必要な事だと思うんです。

 

しかし、誰しも自分の関与した部分において 失敗 した原因を解明するのは、自分の無能さを白日の下に晒す事になるので嫌です。だから、有耶無耶にしたり、他人のせいにしたり、誰のせいでもないという事にして、それを避けようとしますが、それではいつまで経っても 成長 は望めません。

 

失敗の原因と向き合うには、勇気が必要だし、それにより ストレス を感じる事もあります。それは凄くパワーを使う事です。でもそれは、自分の 成長 には必要な事です。もし、自分を今より 成長 させたいと思っているなら、避けられない事だと思います。

 

天理教 では 神に凭れる という言葉がありますが、この言葉を拡大解釈して、自分は何もしなくていい と思っている人が比較的多いです。

今回の新型コロナウイルスにしても、感染は神様のなさる事だから と言って対策を何も講じない人の話をちょくちょく聞きましたが、僕はそれは違うと思います。そもそもこの世で起こる事は神様がなさっている事ではなく、人間の心(精神)が映し出されているだけです。人間がその物事が起こるような心で日々を過ごしているから、そうなる 理(法則)が働いて、起こってくるのだと僕は思っています。

 

今回のコロナウイルスにしても、行動が制限されるような状況に陥ったのは、人間の周りの事を考えず、慎みを知らない自分勝手な行動を戒める為に、そういう状況になるような事態が起こってきたのだと僕は思います。

 

全ては 陽気ぐらし をさせたいという親心からの 導き であるのに、それを 神様がなさる事だから仕方ない と思ってしまっては何の 成長(成人)もありません。自分の感染だけにフォーカスするのではなく、周りに 感染させない 事にフォーカスをした行動が今は求められているのだと思います。

 

自分の心や言動(自責)と向き合い、改善できるところを解明し、改善する事に尽力し、その結果は神様にお任せする(他責)というスタンスが本来の 天理教の信仰者 のスタンスではないかと思います。

 

 

話しがそれてしまいました。(テヘペロ

 

現代人はストレスに過剰です。ストレスを人生を駄目にしてしまうものと認識してできるだけ 排除 しようとしますが、ストレスを全く感じない生き方に 成長 はないと思います。もちろん感じ過ぎるのも考えものですが、多少のストレスは必要なのではないでしょうか? 

 

この世界で変えられるのは自分の関与できる部分だけです。より良い未来を拓く為には、自分の関与できる部分においてベストを尽くす事が必須であるし、ベストを尽くす為には成長は必要で、成長にはストレスが付きものなんだと思います。失敗を失敗のままで終わらせず、成長の糧とする為に、それにおける自責を自覚し、その原因を解明し、向き合い改善する事が豊かな人生を築く為には必要なのだと思います。

 

失敗+ストレス=成長

 

これが僕の 未来を切り拓く方程式 です。

 

おしまい!

 

 

 

 

 

 

好き=嫌い!!

皆さんこんにちは!!

 

初夏の匂いがほのかに香り出した今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。

 

今回は、もうすぐ夏ですね!恋をしてみませんか? という事で、好きな人に振り向いてもらえない男子、女子 に捧げる僕の人間関係のロジックをお届けします。

 

題して「好き=嫌い」です。それでは、

 

Let us go 〜

 

僕たちは、生きていく中でいろんな人たちと出逢いますよね。その中で仲良くなったり、恋をしたり、またいがみ合ったり。様々な関係性を築いていきます。

 

特に 思春期 と呼ばれる時期になる頃から、異性 などの 性対象者 に特別な感情を持ち、恋愛 という関係性を築く事を意識しはじめます。

 

僕は、基本的に惚れやすい男なので、女子にちょっと優しくされるとすぐ恋に陥ちてしまったものです。

 

しかし、自分が相手に恋をしたからと言って、相手も自分に恋をしてくれるとは限らない。これが 恋愛 においての最大の ジレンマ ですよね。僕も今までフラれて、涙で枕を濡らした夜が何回ある事か。。。

 

恋愛 は素敵な思いでや成長を与えてくれるけれど、それと同じだけ、切なさや寂しさも運んできます。甘酸っぱい青春の記憶です。

 

因みに、今はもう 恋愛 なんかどうでも良くて、とにかく 結婚 したい思いが強いですね。ただ、現代社会は、恋愛 の延長線上に 結婚 があるという構図が スタンダード になってきているので 恋愛 がどうでもいいと思っている僕が 結婚 に辿り着ける可能性は極めて低いんですよね。どこかに居ないですかね?恋愛 をすっ飛ばして 結婚 してくれる 石原さとみ さん似の女性が。。。

 

話しがだいぶそれてしまいました。(テヘペロ

 

好きな人や好意を抱いている 恋愛対象者 に言われて傷つく言葉。それは 興味ないから!! です。

 

この言葉は何とも言えない 切なさ を与えてくれます。あんなに一生懸命、好きになってもらおうと努力した頑張りが、実は何の意味もなしてなかったという現実を容赦なく突き付けてくる 無慈悲過ぎる 言葉です。このブログを読んでいる皆さん。どうかこの言葉だけは、言わないであげてください。

 

次に傷つく言葉。それは 生理的に無理!! です。

 

この言葉は傷つきます。打ち拉がれます。僕も数多と浴びせられた言葉ですが、もうこの言葉を浴びせられた瞬間、抱く感情は 絶望 です。未来が 静かにその扉を閉める 感じは何とも言えない感覚を与えてくれます。生理的に無理。つまり、大した理由は無いけど、本能が拒否している。この存在自体を拒絶される感じは只々 絶望感 しか無いです。このブログを読んでいる皆さん、この言葉はもはや 暴言 です。使わないであげてください。 

 

人間関係を構築する上で僕たちは 仕分け をしています。その 仕分け区分 は大きく分けて 好き、嫌い、どちらでもない になるのではないかと思います。どちらでもない の人たちには、基本的に興味が無いという事になると思うので、好転も悪化も起こり難いです。

 

好き の人たちには、興味があります。なので積極的に情報を得ようと接触します。相手の事を知りたいし、自分の事も知ってほしいですよね。しかし、好きは評価ランクでは上位なので、急激に評価がそれ以上になる事は無いです。寧ろ、急激に下がる可能性の方が極めて高いです。

 

さて、前置きがかなり長くなりましたが、今回の本題はここからです。

 

嫌い に仕分けされた人たち。実は人間は、この人たちの事も 好き な人たちと同じくらい観察しています。それは何故か?自分の身を守る為です。人間は 嫌いな人 と距離を取ろうとします。相手が近づいてきたら、瞬時に距離を取れるように常に 意識 をしています。

 

サッカーで例えると、ボールを保持しているのがあなた、好きな人 が味方、嫌いな人 が敵、どちらでもない人 が審判です。

 

ボールを保持しているあなたが常に把握しておきたい情報は、味方の位置と敵の位置です。その情報から自分がすべき事を考え選択し、実行します。

 

つまり、人間は自分の行動を選択し実行する為に 嫌いな人 と位置づけしている人の動きも把握する必要があるのです。

 

それは、意識している という事になると思います。相手は確実に 意識 しているわけですから、その中で、嫌い というイメージを払拭し、うまく 好き というイメージを植え付ける事ができれば、好きな人 になる可能性は充分にあります。嫌い という評価ランクは下位、伸びしろはかなりあります。

 

もし、あなたがあなたの好きな人に 嫌い と言われたとしても諦めるのは早いです。何故なら 嫌い という事は 好き と同じだけ意識が向いているという事だからです。イメージを挽回するチャンスはまだまだあります。

 

さすがに 生理的に無理 から 好き になる事はほぼ皆無だと思いますが、大嫌い くらいなら充分に挽回する事ができるのではないかと思います。

 

諦めず、素敵な恋をゲットしてください。

 

You can do it!!

 

おしまい。

 

 

 

それは試練か絶望か?

皆さんこんにちは!!

 

今回は「試練」について考察したいと思います。

 

つい最近 Twitter でこんな呟きをしました。

 

https://twitter.com/religionist_007/status/1262211533427204096?s=21

 

「この Tweet に、もっと掘り下げてブログに書いてほしい。」

 

とのリプライが付きましたので、今回はそのリクエストにお応えすべく、この Tweet を掘り下げて 練り練り していきたいと思います。

 

その前に、僕は SNSでリクエストをされた事が皆無だし、そもそもリプライも殆ど付かないので、今回のリプライは凄く嬉しいです。

かと言って今回のリクエストの期待に応えられる記事にする自信も皆無ですが、僕なりに 練り練り した記事をお届けしたいと思います。

 

それでは、Let us go 〜 !!

 

そもそもこの Tweet の感覚をどこで得たかと言いますと、最近観たドラマ 仁ーJINー を観ていてです。

 

仁ーJINー を観た感想は以前ブログにしてますのでよかったら読んでみてください。

 

https://captainace.hatenadiary.com/entry/2020/05/16/113912

 

その劇中で主人公 南方 仁 が試練にぶち当たるたびに言う台詞が、

 

「神は乗り越えられる試練しか与えない。」

 

でした。普通に名言だと思うし、一般的な感覚の人はこの台詞が出てくるシーンに感動して終わりなんだと思います。

(もちろん僕も涙ながらに観ました。)

 

しかし、僕は捻くれているのでしょう。感動が引いていくとふと思うんです。

 

「いや、試練多すぎやろ!!」

 

それは仕方ない事なんです。構成として 試練 がないとドラマとして成立しないわけですから。だからこそドラマの場合は 試練  に立ち向かわなければならないんです。

 

でも、僕たちの人生はどうでしょうか?

確かに、試練 と認識できる事はそれなりに起こりますが、立ち向かう立ち向かわない かは 選択 できるんじゃないかと思うんです。

 

ならば、試練 は 神様が与えている のではなくて、寧ろ 自分から試練に突っ込んで行っている のではないかと思ってしまったのです。

 

試練 とは

 

実力・決心・信仰の程度を厳しくためすこと。また、その時の苦難。

 

だそうです。

 

厳しくためす、苦難。試練 とは辛く厳しいものです。でも やらなければならない事 でもないですよね。その ためし や 苦難 に乗るか乗らないかの 選択 は提示された本人に委ねられているし、乗らないからといって生きていけない事もないです。試練 は向き合ってはじめて 試練 になります。逆に言えば向き合わない限り 試練 にはなり得ないという事ですよね。しかし、試練 という概念があるという事は向き合うという概念があるからです。何故向き合わなくても生きていけるのに、向き合うという 超どM な選択をするのか?それは、みんなそれぞれに 夢や理想 などの実現したい もの があって、それを実現する為には、その 試練 と認識したものを乗り越えなければならないと分かっているからだと思います。

 

夢や理想 を実現する為のルートは一つではないと思います。自分が歩いているルートにおいて 壁(試練) ぬりかべ のように立ちはだかってきた時の選択肢は2つ、乗り越えるか、迂回して違うルートを行くか だと思います。しかし、どんなに迂回しても避けられない壁というのもまた 存在 します。その時の選択肢は2つ、乗り越えるか、諦めるか です。

 

「あなたはどちらを選択しますか?」

 

次に 信仰的 な 試練 について考察したいと思います。

 

天理教 信仰 している僕が 試練 という言葉で先ずイメージするのは、身上の障り や 事情の縺れ です。これらに直面した時、先ず感じるのは 絶望感 だと思います。特に難しい 障り や 縺れ であればある程、その感情も大きくなるのではないでしょうか。

 

こういう言い方をすると 試練=絶望 と思う人がいるかもしれないですが、僕は 試練 と 絶望 は違うと思います。正確に言うと 絶望 はその もの を 試練 と認識する前の段階で感じる 感情 であると思います。つまり、試練 となり得るものに直面した時、人が最初に感じるのは 絶望 なのではないでしょうか。その 絶望 からある要素を見い出せた時、その もの を 試練 と認識できるのではないかと思うのです。その要素は 希望 です。

 

希望 はより良い未来を拓く為の感情であり、その感情の先にあるのは 成長 です。つまり、その もの を自分自身の成長の糧と認識できた時、それは 試練 になり得ます。逆に言えば、成長をしようとしない人、あるいは、絶望 に向き合う事をしない人には、その もの は 試練 となり得ないし、未来も拓いていかないと言えるのではないでしょうか。

 

天理教 の 理念 は 陽気ぐらし をする事で、世界は 陽気ぐらし に辿り着く為の 理(法則)に支配されています。そう考えると、この世には 絶望 なんか無くて、あるのは果てしない 希望 だと思えます。そういう 価値観 を与えてくれるこの 御教え は本当に素晴らしいと思います。

 

試練 は辛く厳しいイメージが強いけど、その先に見えているのは、明るい未来です。そう考えると 試練 は人生をより良くしてくれるものである事は間違いないと思います。ただ、向き合い、乗り越えるのは1人では難しいです。でもそれを 試練 と認識して乗り越えようとする時、あなたがその 試練 を乗り越えられるように支えてくれる人たちが必ず現れます。だから必ず乗り越えられるはずです。

 

最後に、冒頭でドラマは試練がないとドラマにならない と言いましたが、それは僕たちの人生にも言える事だと思います。良いドラマに 試練 が付き物のように、良い人生にもきっと 試練 は付き物だと思います。試練 を乗り越えた数だけ、豊かで 濃厚 で素敵な人生になるのだろうと僕は思います。

 

おしまい!

 

 

 

 

 

 

アイデンティティについて思う事!!

皆さんこんにちは!!

 

今回は、アイデンティティについて、僕が思う事を綴ります。

 

よろしくお願いします。

 

僕は、人間それぞれに この世に存在している意味 があると思っています。どんな境遇や環境にあっても、人間には必ず存在意義があります。

 

勿論、それは、誰も教えてくれないから、自分で模索し、認識する事なのですが、その模索し、認識する作業で要(かなめ)となる要素は、【アイデンティティ】ではないかと思うのです。

 

自分が何処から来たのか?自分という人間が誕生し、存在する事になった命の系図を知る事はとても大切であると思います。

 

 

僕たちは、ある日突然、この世に現れたわけではありません。何千年、何万年、何億年という、命の営みと繋がりの果てに存在できています。まずその事を深く理解しなければならないと思うんです。そしてその繋がりを強く意識する時、自分たちが 何を成し得る為に存在しているのか? ということに思いを馳せる事ができるのではないかと思うんです。

 

現代日本人は、アイデンティティを求めない人たちが多いと感じます。そんな事を考えなくても何不自由なく生きていけるし、考えない方が楽だからだと思います。

 

しかし、自分という人間がこの世に存在する事となった、経緯を知らずして、自分という存在に価値を見い出す事は不可能ではないか思うんです。

 

現代社会で生きている人間が、どこか 生きることに空虚さ を感じているように見えるのは、そういうところを 蔑ろ にしているという側面もあるのではないでしょうか?

 

現代社会は、個人の自由や権利を過剰に尊重する傾向が強いと感じます。確かにそれは、とても大切な事であるけど、忘れてはならないのは、人間は人間お互いの繋がりの間で生まれ育まれるという大前提があり、それが無ければ、自由も権利も所有できないし、主張できないという事です。

 

人間、1人の一生は生きても100年余りだと思います。身体が自分のイメージ通り動かせる期間は必然的にそれより、短くなるわけですから、生きている間にできる事なんて本当にたかが知れています。

 

人間は、歴史の中で高度に発達した文明と発展した文化を築いてきたし、それは今も続いているけれど、これらの進歩は、人間が一代では到底成し得る事のできない事です。だからこそ、僕たちの祖先は、託す という形で後人(こうじん)に繋ぎ続けました。だからこそ、現代社会は、こんなにも高度で豊かな社会を築けています。そしてそれは、これからも続いていくのでしょう。

 

ものや技術を残し託す。それはとても大切であり、世界の進歩には欠かす事のできない要素であると思うけど、それだけじゃあ足りないと僕は思うんです。

 

何故、そのものや技術が創造されたのか?を考える時、そこには、後の世をより良きものにしたい。という 精神や意志 があったと思うんです。それは、後人たちへの 思いやり であったとも思います。そして もの技術 と共にその 精神意志 を託し、引き継ぎ、繋げてきたからこその現代だと思うんです。人間は本来、精神や意志の繋がりによって生きていくものではないでしょうか?

 

現代は、歴史上最も繋がりの気薄な時代なのではないかと感じます。それは、個人の人生を重んじるが故に生じた事であると思います。確かに何のしがらみもなく生きていく事は、楽なのかもしれません。しかし、その生き方はあまりにも刹那的で、寂しい生き方であるのではないでしょうか?その先に明るい未来はあるのでしょうか?

 

僕は、人間はしあわせになる為に生まれ、存在していると思っているけれど、それはただ、個人がしあわせになればいいという事ではないとも理解しています。僕たちの今のしあわせは、先人たちの 後人の世がより良くなってほしい という 意志精神 の上に成り立っているものだと僕は思うのです。ならば、僕たちもそういう 意志精神 で生きていくべきではないかと思うんです。

 

その為にも、自分という人間がどういう経緯でこの世に誕生し、先人がその中で何を考え、繋ぎたかったのか?そういう意志や精神に思いを馳せる事は大切であると思うし、その中で自分が為すべき事を得る事ができるのではないかと思うんです。

 

僕たち人間、1人1人の人生は確かに個人のものであるし、自由であるけど、その人生は先人たちの数多の命の繋がりの中で営まれているという事は紛れも無い現実であるし、その中で生きている以上、僕たちは受け継いでいかなければならないし、繋げていかないければならないと思うし、それが、ある意味 使命 なのではないかと思ったりもします。

 

人間は本当に儚い存在であると思います。天下布武 を掲げ、志し半ばでその人生の幕を閉じる事となった戦国時代の武将、織田信長 は生前、【敦盛】という舞を好んでよく舞っていたそうですが、その中には、人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり という一節があります。

 

何か大きな志しを成すには、人生はあまりにも短いです。だからこそ人は、その志しや精神をものや技術と共に残し、託してきた。

つまり現代社会は、先人たちの自分ではない他の誰かのしあわせを願う精神の結晶とも言えるのではないでしょうか。

 

 

 

現代人はしがらみを嫌うけれど、しがらみこそ繋がりだし、繋がりの中でしか自分の存在意義は見い出せないと僕は思っています。その中で、先人の求めたものに思いを馳せて、受け継ぎ、それを自分の中で新たな形に昇華して、後人に繋いでいく。

 

俳人 松尾芭蕉 はこんな言葉を残しています。

 

先人の後を追うな。先人の求めたものを求めよ。

 

 

大切なのは、形を継承する事ではなく、その形に込められた 本質 を継承していく事だと思います。そしてそれは、精神 とか 思想 とか 志し のような抽象的なものになると思います。

 

抽象的である故に、分かりにくく、結果 継承=形を残す事 と認識してしまいがちになりますが、それでは 進歩 という要素が欠けるのではないかと思います。

 

時代の流れの中で全く形を変化させないということは不可能であると思うし、寧ろ形は変えるべきだと僕は思うんです。精神や思想、志しを継承する事と形を残す事は違います。時代が変わればニーズも変わります。そのニーズに対応した形を模索し、新たな形へと昇華していく事こそ、僕は 継承 であると思います。そこに宿るのは、受け継いだ 精神や思想、志し であり、その本質は より良く未来を創造する という 自分以外の誰かのしあわせ を願う 思いやり だと思うんです。

 

形ややり方にこだわらず、そこに込められた 本質 を理解し、継承し、託していけば、世界はもっと高度で豊かになれると思います。ただ上部だけを見て、時代遅れと切り捨てるんじゃなくて、その中に隠されたものを見抜き、掴み取る為に、アイデンティティを探求していく事は必要不可欠だと思います。

 

 

今回は、アイデンティティについて僕が思う事をシェアさせてもらいました。
未来の世界を創造するのは、その時代の人たちであるけれど、その土台を創ってあげられるのは現代に生きる僕たちです。先人たちの築かれた土台があればこその現代だと思います。それは、未来を良きものにしたいという先人たちの精神や意志があり、託し、受け継ぐという繋がりがあったればこそ成ってきた姿だと僕は思います。

 

未来をより良きものとする為に、自分自身のアイデンティティを探求し、その中で先人たちが何を求め、後人に託そうとしたのかを知り、その精神や意志をしっかりと継承し、それを更に自分の中で昇華して次の世代に残し、託していくというサイクルは、無くてはならないものなんじゃないかと思います。僕たちのしあわせの本質は、今を生きる自分、個人の求めるしあわせではなくて、時代の流れの中で、託され、継承されていくものの中にこそあると僕は思います。

 

今回は、以上です。

 

ありがとうございました。

仁-JIN-を観ました!

皆さんこんにちは!!

 

久しぶりにブログを書こうと思います。

 

最近、仁-JIN-というドラマを観ました。

かなり前に流行ったドラマです。

 

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現代の脳外科医が江戸時代末期にタイムスリップするという何とも斬新なストーリーですが、それが時代劇と現代劇をミックスした感じの何とも言えない世界観を創り出しています。

 

主人公 南方 仁  役は大沢たかおさん、ヒロイン 橘 咲 役は綾瀬はるかさんです。

 

因みに、僕は、中谷美紀さん演じる 野風花魁 に恋をしました。ビジュアルの美しさもさる事ながら、劇中の所作や表情が何とも品があり、美しいです。

 

主人公 南方 仁 は、劇中では語られていませんが、かなり優秀な脳外科医であると僕は推察します。また他の臓器についてもそれなりの知識や執刀経験があるようで、災害医療現場などでの情報処理能力や判断力も極めて高いです。

 

そんな 南方先生 が幕末にタイムスリップして突き付けられた現実は 自分の無力さ でした。

 

現代では、それなりの知識や経験を積み、大概の事なら対応できるという自負があったのでしょう。しかし、幕末では、現代では問題なくたすけられる命が、簡単に失われていきます。そして、現代で救えていた命は、自分の力ではなく、実は現代の医療環境だったという事に気づきます。薬も医療器具も不十分な幕末では、自分は予想以上に無力であったのです。

 

しかし、南方先生 は悩み、苦しみながらも、その現実と向き合い、情熱と信念、そして周りの人々に支えられ、自分が幕末に送り込まれた意味を模索しながら、運命を切り拓いていきます。

 

このドラマは非常にメッセージ性の強いドラマです。色々なメッセージが端々に散りばめられていて、生きる という事を凄く考えさせられます。その中で 核 となるメッセージは、繋がり なのではないかと思います。

 

現代に生きる僕たちは、繋がり をあまり意識せずに生きています。それの原因は、豊か過ぎる環境 ではないかと思います。昨今は個人の自由や権利が尊重されます。それはとても良い事であると思うけど、故に個人が自由に生きていく為の環境が整えられて、人との繋がりを持たなくても生きていける時代になりました。

 

しかし、実は僕たちは勘違いをしているのだと思うんです。僕たちは繋がりを持たなくても生きていける環境にあるのではなくて、繋がりの形を変えたのだと思うんです。確かに、直接人と関わる必要性は減っています。しかし、それは、誰かが創ったものや技術の恩恵があればこそだと思うんです。

 

僕たちの生活は誰かの働きにより支えられています。そしてそれも一つの繋がりの形ではないかと思います。そう考えるとやはり僕たち人間は繋がりにより生かされているのであるし、もっとそういう繋がりを意識する必要があるんじゃないかと思います。

 

そして何より現在、自分が存在できているのは、親、親が命の繋がりを繋ぎ続けてくれたからこそです。だから僕たちは自分の人生という時間を楽しめています。

 

繋がりを意識し、その繋がりに感謝して、生きていける自分でありたいと思う今日この頃です。

 

おしまい!