離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

徳と理!!

 

皆さんこんにちは!!

 

今回は《徳と理》の関係性 について考察していきたいと思います。

 

 

 

目次

 

 

世界のルール

 

 

皆さんにとって良い人生とは何ですか?

 

僕が思う良い人生とは 思う事が思うようになる人生 です。やっぱりなんだかんだ 自分の人生を自分の思うように したいですよね。しかし、世の中そんなうまくはいかないものです。うまくいく時、思い通りになる時はあります。しかし、うまくいかない、思い通りにいかない時の方が 圧倒的に多い ですよね。

 

その原因は何だと思いますか?

 

まあ原因はいろいろあると思いますが、僕が思う最大の原因は 理が働かないから です。

この世界の全ては絶対的な 原理、原則(理)の上に成り立っています。成ってくる事全ては、それが成ってくる 理 が働いているからです。自分に都合の悪い理が働けば、自分に都合の悪い事が成ってくるし、自分に都合の良い理が働けば、自分に都合の良い事が成ってきます。この世界はそういう ルール になっています。では、

 

それは誰が決めたのか?

 

神様 です。

 

この世界は 神様 が 人間の陽気に暮らす状を見る為 に創られた世界です。なので、人間に 陽気ぐらし をさせる為の ルール により支配されています。要はその ルール を理解して、自分に都合の良い事が起こるように操作する事ができれば、自分に都合の良い人生が送れるという事になります。

 

どうすればルールを操作する事ができるのか?

 

まず、その ルール を理解する事、そしてそれを操作できる  を得る事が必須です。

 

操作する力とは何なのか?

 

それは  です。徳 とは 魂の力 (筋肉)だと考えます。自分に都合の良い 理 を働かせるにはそれに見合った が必要です。結局、自分に都合の良い人生を送るには 徳 を積むしかないのです。徳 は人から貰ったり、人にあげたりする事はできません。また一気にガツンと積む事もできません。日々、常々、地道にコツコツと積み上げていくしかできません。

 

ではどうすれば徳が積めるのか?

 

それを考察していきたいと思います。

 

 

 

かしもの、かりもの

 

 

徳積み を考える上において必須の概念はやはり かしもの、かりもの だと思います。この意味を理解すれば 何が徳積みになるのか? が自ずと分かるはずです。

 

人間の身体は 神様からのかりもの。ではそもそも 神様 は 何故人間に身体を借しているのか?

 

答えは 陽気ぐらしする状 を見る為です。

 

では何故借すというシステムにしているのか?

 

僕はこの理由は二つあると考えます。

 

一つは 自分の人生に集中させる為 です。もし身体が自分の もの であったなら、人間は自分自身で身体のありとあらゆる機能を管理しなければなりません。つまり、現在無意識に行われている領域の働きをも意識しなければならなくなります。この場合、意識が無くなる=死 です。そもそも巧妙で複雑な人間の身体を全て意識して管理する事など恐らく物理的に無理であるし、できたとしても、管理する事に全神経を集中しなければならないと思うし、そうなると 陽気ぐらし どころではなくなります。あくまで 神様 の目的は 陽気ぐらしを見る事 なので、それが可能なだけの 余裕 を持たせる為に 借す というシステムにしているのではないかという考察が一つ。

 

もう一つは、好き勝手使わせない為 ではないかという考察です。かしもの というシステムにする事により身体の 実権 は借し主である 神様 にあります。そうする事で  人間が好き勝手に身体を使う事を制御している と考えます。つまりこれは 身体は自由に使っていいけれど、無秩序に使ってはいけない という事になると思います。僕たちは 神様 が創り、支配する ルール の範囲内であれば、身体を自由に使えるけど、そうでない場合はその限りではない という考察です。

 

これらの考察から、徳積み となる行為は 陽気ぐらしの実践 になると考えます。

 

 

 

実践のかどめ

 

 

こうなると 陽気ぐらしって何? という疑問が生じます。はっきり言ってそれは分かりません。何故なら 未知の領域 だからです。そもそも陽気ぐらし世界を目指している現状において それ はまだ実現していないという事になるので当然といえば当然です。困りました。どうやら 徳積み についての思考はここで頓挫してしまったようです。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

安心してください。続きますよ!!

 

 

現状、陽気ぐらし世界は実現していません。しかしそれは、世界 が実現していないだけです。個人となると話しは別になります。先人、先輩達の中には 陽気ぐらし を体感したであろう人達が何人かいます。つまり、個人レベルにおいて 陽気ぐらしを実践し、体感する事 は十分可能であると考えます。そしてその かどめ を おやさま は残されています。人間でありながら神の言葉を取り次ぐ仕事を許された先人にされた仕込み。それは、

 

朝起き、正直、はたらき

 

です。

 

この三つをしっかり実践すれば 徳 は積まれていくはずです。少し考察します。

 

朝起き; 朝起きる事ですね。早起きではなく朝起きです。正確に言うと朝起きに 朝早く起きる という意味が含まれているみたいですが、早起きではなく朝起きと表現されているのは何か意図があると考えます。僕が思うに 早く起きましょう というより 朝に起きましょう  というニュアンスが強いと感じます。この意味は やるべき時にやるべき事をしましょう という事ではないかと考えます。また、我が身可愛い一条 に陥らないようにという戒めもあると考えます。睡眠は人間の三大欲求であり、中でも毎日健やかに暮らす上で絶対に必要な行為です。この絶対に逃れられない 欲  を如何に制御できるかが 朝起き にはあります。埃に負けず自分を律する という事も含まれているのではないかと考察します。

 

正直;おやさま は 蔭でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのはその身が嘘になるで。と言われています。この 正直 に込められた思いは 素直に実行する という事だと思います。

 

はたらき;おやさま は 働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらく(註、側楽・ハタラク)と言うのや。と言われています。陽気ぐらしの実践において基本となる精神はやはり周りの人たちに楽をさせる事だと思います。これは 優しさ とか 思いやり のような概念に近いと思います。自己を中心に判断するのではなく、利他を中心に判断する事が必須であると考えます。

 

 

最後に

 

 

今回は、「自分に都合の良い人生を送る為にはどうしたらいいのか?」から出発した考察でした。結果、「自分に都合のよい人生を送るには周りの人が都合よく生きれるように尽力しましょう!」という結論に着地しました。この事から世界は 自分一人で好き勝手生きていけるようになっていない と僕は考察します。この世界はみんなでハッピーになろうとしないと誰もハッピーになれない世界なのだと思います。この世界での生き方の正解はたぶん、みんなでハッピーになろうとする事  だと僕は思います。

 

おしまい!!

 

 

 

 

 

 

 

数を追う信仰からの脱却!!

皆さんこんにちは!!

 

今回は、「数を追う信仰」について僕が思う事を綴ります。

 

 

目次

 

 

心定め

 

 

天理教 ではよく 心定め という 目標 の様な 誓い の様なものをしたり、またするように促されたりします。こういう場合は大抵、にをいがけ何万軒 とか 初席者何名 とか 修養生何名 とかという具体的な数字を定める場合が多いです。

 

三年千日 なんて言葉もあって、本部や教会 の記念祭や行事には、三年前から 心定め をして三年かけてその心定めを達成できるような動きをします。

 

具体的な数字を定める事により、目指すところが明確になるので、動きとしてはイメージしやすいし、動きやすいと思います。しかし、それは、その事を最優先にしてしまう という事、つまり 信仰的余白 がなくなる事に繋がる可能性が高くなるのではないかと思うのです。

 

例えば、にをいがけ何万軒 という 心定め をした場合、この 何万軒 という数字に捉われ、その達成を 最優先 にしてしまった結果、本来の にをいがけ の目的やあるべき姿を見失うというような状態に陥りやすくなるのではないかと思います。

 

しかしながら、夢中になるからこそ掴めるものがあるというのもまた事実です。一心不乱にやるからこそ掴めるものもあります。この場合、求められるのは 不可能ではない可能性 という要素と 集中力を維持できる期間 である事だと思います。できるかできないかのギリギリの短期間で達成できる数字。あまり長期間になり過ぎるとやはりダレてきますし、雑にもなります。それでは掴めるものも掴めません。長期間になる場合はある程度余裕がある数字を設定するべきだと思います。

 

 

信仰的余白の大切さ

 

 

そもそも 信仰 とは 、目に見えない もの を追うという要素が大きいです。それはある意味 目に見えるものから脱却するからこそ気づけるのではないか とも思えます。

 

数を追うという事は目に見える もの を追うという事。それは確かに 認識 が容易であり分かりやすい世界ではあります。しかし、本来掴むべきものは 目に見えない世界 にこそ存在するのではないでしょうか?そう考えると大切なのは 感じる力 であり、その 感じる力 を最大限に発揮できるのは 視野が広くとれる状況、即ち 余裕のある状況 ではないかと思います。

 

もちろんどんな状況でも視野を広くとる事ができる人はいますが、それには 高い能力 が必要で 万人 には無理です。なのであまり現実離れした数字を 目標 とするのは信仰的には好ましくないのではないかと思います。

 

教内 では、メモリアルなイベントに際して 三年千日 として 心定め  がよく提示されます。しかしこの場合、この心定めを決める作業にその心定めの達成に関与する人たちが 関わっていない という現象が生じます。この場合、具体的な数字を提示してしまうとそれは信仰的な 心定め というよりも 業務 という感覚に近くなります。信仰はあくまで 自主的 な要素があるからこそ 実 を結ぶものだと思います。なのでこのような場合は 抽象的 な提示をして、それを受ける人たちに 自主的な選択 ができるような 余白 を持たせるべきであると思います。

 

 

最後に

 

 

教会単位で 心定め をするのはかなり難しいと思います。何故なら 信仰レベル がそれぞれ違うからです。その レベル を何処に合わせるかで下手をすると 不足 をする人たちも出てきます。そもそも論として、その教会に属する人たちがみんな 同じ事をしなければならない という事はないと思います。そう考えると、教会単位でする 心定め は ナンセンス なのかもしれません。それぞれがそれぞれの 信仰レベル に合わせた 成人の歩み ができるようの環境がやはり ベスト だと思います。

 

大切な事は イベント を成功させる事ではなく、その イベント が 成人の糧 となるかどうかだと思います。もし それ が 成人の糧 とならない要素があるのならそれは信仰的には 必要のないもの ではないかと僕は思います。

 

おしまい!!

 

 

 

 

 

 

 

宗教と学問!!

皆さんこんにちは!!

 

今回は、「宗教と学問」の 関係性 について考察します。

 

目次

 

 

宗教と学問

 

 

天理教教祖傳逸話編 にはこんなエピソードがあります。

 

190 「この道は」

 

 明治十九年夏、松村吉太郎が、お屋敷へ帰らせて頂いた時のこと。多少学問の素養などもあった松村の目には、当時、お屋敷へ寄り集う人々の中に見受けられる無学さや、余りにも粗野な振舞などが、異様に思われ、軽侮の念すら感じていた。

 

ある時、教祖にお目通りすると、教祖は、

この道は、智恵学問の道やない。来る者に来なと言わん。来ぬ者に、無理に来いと言わんのや。

と、仰せになった。

 

 このお言葉を承って、松村は、心の底から高慢のさんげをし、ぢばの理の尊さを、心に深く感銘したのであった。

 

天理教内 において 学問(知識や教養)は信仰において 邪魔になるもの という認識が強いのではないかと思います。確かに豊富過ぎる 知識 や 教養 は人を 頭でっかち にしてしまう場合があります。世の中は必ずしも世間一般で 常識 と考えられている 理論 で全てが解決する程 単純  でもないです。なので、知識 や 教養 を捏ねくり回すだけでは、いつかどん詰まり状態になると思います。

 

ただ、知識 や 教養 が 全く必要ないもの と認識するのはちょっと違うような気がします。

 

そもそも、学問は何の為にあるのか?

 

それは 人生を豊かにする為 であると思います。それは即ち、人が存在している事の真理の探究 になるのではないかと僕は思うのです。そしてこれは 宗教 にも当てはまると思います。

つまり、学問  も 宗教 も 目指しているもの は 一つ なのではないかと思うのです。ただ、アプローチ の仕方が違うだけなのではないでしょう。

 

 

宗教と学問の違い

 

 

では 宗教 と 学問 はどう違うのかを僕なりに考察したいと思います。これはあくまで僕個人の考察です。僕は 専門家  でも何でもないので これが正解 というわけではないという事を理解していただきたいと思います。

 

学問 とは結局 統計 。即ち、過去の成果をデータとして蓄積する事により成り立つものではないかと思います。そのデータからある程度の未来を予測し、新しいものを 創造 していく。過去の 経験 を糧として、未来を切り開く力。それが 学問 ではないかと定義します。

 

宗教 とは 既に決まっている未来への歩み ではないかと思います。あるべき未来は既に決まっていて、その状態になる為にどうすれば良いかを説かれたもの。即ち、目指すべき未来から逆算して過去を顧み、今という時間をどう生きるを得る指針。これが 宗教 ではないかと定義します。

 

学問 は目指すべき未来が決まっていません。なので、未来がどうあるべきかを常に 模索 しながらの歩みとなります。この場合、意識は常に 未来 にあって、その未来の為に 過去 を掘り下げながら未来の可能性を探るという作業を 今 という時間で行います。

 

宗教 は目指すべき未来が既に決まっています。なので、未来を模索する必要がありません。この場合、意識は常に 今 にあって、過去の経験を 今 に 還元 するという行為をリアルタイムで行います。

 

僕が思うに、目的地はきっと一つです。その先には 人間が本来あるべき姿 があるのだと思います。ただ、見ている世界 が違います。学問 は常に 未来 を意識し、宗教 は常に 今  を意識します。確かに未来を意識する事は大切です。しかし、忘れてはならないのは 未来とは今の先にあるもの だという事です。なので 未来 以上に 今 という時間は意識されるべきものだと思います。

 

 

最後に

 

 

近年、お道 においても 過去を掘り下げる という作業はとても大切な要素であると思います。リアルタイムで教えを説いてくれる方が現し身を隠されている今、現代信仰者がその教えを忠実に体現しようとする時、過去にその糸口を求める他に手段がないからです。そう考えると現代は 学問 なくして教えを体現する事は 不可能 な時代なのかもしれません。しかしながら、それはあくまで 実践、実行 する為に必要な事であり、これら 二つの要素 がない学問 は何の意味もありません。

 

おさしづ では

 

反対する者も可愛我が子、念ずる者は尚の事。なれど、念ずる者でも、用いねば反対同様のもの

 

と言われています。

 

この お道 は 実践、実行 の教えであると聞かさます。学問 はその為の手段ではないかと思います。元はじまりの話 では 六千年は知恵の仕込み と言われます。その仕込まれた 知恵 により 学問 が誕生したのなら、学問もまた 陽気ぐらし世界 には必要な要素なのかもしれません。

 

 

There is a difference,between knowing the path and walking the path.

 

《映画 マトリックス より》

 

 

おしまい!!

 

 

 

 

 

 

 

 

組織改革の難しさ!!

 

皆さんこんにちは!!

 

前回は「今こそ変革の旬!」なんだみたいな記事を書きました。

 

今回は「改革や変革の難しさ!!」について僕が思う事を綴りたいと思います。

 

目次

 

 

組織化の目的

 

 

組織は何なのか?何の為に存在するのか?

 

組織とは 団体、コミュニティー を 統率 する為の システム です。団体、コミュニティー とは、共通の思想理念目的 を持つ人の 集合体 です。即ち、組織 があるところには必ず 思想や理念、目的 があります。

 

 

僕が信仰している 天理教 にも組織は存在します。その 思想 は おやさま が説かれた教えであり、理念 は おやさま が通られた ひながた であり、目的 は 陽気ぐらし世界の実現 です。

 

団体やコミュニティーの発生には二通りのパターンがあると思います。意図的に創ろうとしてできる場合と自然発生的にできてくる場合です。

 

天理教 の場合は おやさま の思想や理念、目的に感動し 共感 した人たちが自然と集まり コミュニティー化 したと推察しますので、自然発生的にできたものであると認識します。

 

団体やコミュニティーは思想や理念を体現したり目的を達成する為に存在します。それは、それらを効率よく体現し、達成する為には団体を形成したりコミュニティー化した方が効率が良いし、選択肢や可能性も広がるからです。

 

人間はたぶんそれを 本能的 に理解しています。それはそういう遺伝子が組み込まれているからだと思います。だから人間世界には コミュニティー化 は欠かせないものになっているんだと思います。

 

団体やコミュニティーと言ってもその規模は様々です。

 

大きなものから小さなものまで動かす力だヤンマーディーゼル!!

 

小さなコミュニティーは特に組織化 しなくても比較的 統率 はとりやすいと思います。それは 意識や情報、認識の共有 が容易だからです。コミュニティーは大きければ大きいほど それらの共有 が難しいくなります。まあ大きくなればそれだけ所属している人の数も多くなるわけですから 必然 と言えば必然です。コミュニティーの運営において、最も重要なのは 共有 という要素です。如何に効率的に 共有 するか。それを可能にするのが 組織化 です。

 

 

如何に効率よく高い精度で物事を共有するか!

 

小さなコミュニティーでは物事を伝える段階で詳細化する事で 共有精度 を上げる事ができますが、大きなコミュニティーでそれをやると著しく効率が低下します。大きなコミュニティーで 共有の精度 を高める為には、共有すべき物事をより 純粋なもの にする必要があります。その為には 専門性 が不可欠です。なので 組織化 とは コミュニティー を専門性を持たせて 細分化 する事とも言えると思います。なので大きなコミュニティーになればなるほど 複雑 に 細分化  された組織になっているはずです。それは 共有精度 を上げる為です。

 

 

天理教団 も規模としてはかなりのものであると認識します。なので組織も 複雑化 しているはずです。よって目的に合った部署に行かないととりあってくれないと思います。

 

例えば、布教二課に持っていくべき案件を布教一課に持って行っても 「布教二課に行ってください。」と言われると思います。この言葉に「天理教も不親切になった。」なんて事を思ってはいけません。不親切なのではなく、対応する能力がない のです。それは 守備範囲外 だからです。

 

野球で例えると、レフトフライが上がっているのにセンターを守っている選手に捕球するよう指示をするようなものです。物理的に無理なのです。組織に属する人はこういう仕組みや事情もある程度、理解しなければならないと思います。

 

 

組織を動かす権限

 

 

組織は誰の力(権限)で動くのか?

 

組織を動かすのは誰の力(権限)でもありません。組織を動かすのは 思想や理念、目的 です。これが 組織の核 です。組織のどんな動向にもその中心には 核 があるし、なければなりません。

 

たまに 団体トップ が組織を動かしていると 勘違い している人がいます。確かにその団体の 創始者 であれば その人= 核 という構図が成立します。

 

しかし、団体トップが創始者でない場合、その構図は成り立ちません。故に団体トップ一人に全権限を与えるのは 核 がズレてしまう可能性が非常に高く 危険 です。なのでこの場合は、組織の動向が 本当に核に沿っているものなのか? を 吟味 する必要があります。大きな団体にはそれを吟味する機関が存在します。天理教団 にもそういう機関があるはずです。特に 宗教団体 は 思想や理念、目的  の 体現や達成 がその 存在意義 なので無いとおかしいです。

 

この機関は団体内で影響力のある人たちで構成されていると思います。そしてその 貢献度 や 在籍期間 などの要素により パワーバランス が発生します。建前はどうかは分かりませんが、実質 全てのメンバーが対等 というわけではないと思います。そして組織を改革しようとする時、最も弊害となるのは間違いなくこの パワーバランス です。

 

このパワーバランスは例えるなら トランプ が最もイメージしやすいかもしれません。

 

ジョーカー が最も強いカード。二番目は  にしましょう。あとみんな似たり寄ったりな感じで。。。

 

ここにある団体の組織運営を決定する機関があります。メンバーは 団体トップが1人、貢献度が高い、または在籍期間が長い人たちが4人、それなりの影響力がある人たちが5人の計10人です。

 

団体トップはもちろん ジョーカー です。最も大きな権限を持っています。次に強いのが貢献度や在籍期間が長い人たち。この人たちは  です。あとの5人は 3、4、5、6、7 とします。

 

1対1 勝負なら ジョーカー に勝てるカードはありません。しかし、人間社会というものは必ずしも 1対1 の勝負になるとは限らないのです。なので 最強のカード ジョーカー が負けてしまうという状況も往々にしてあります。

 

人間の心理は基本的に変化を嫌います。特に年配者はその傾向が強いです。団体内の有力者は順当にいけば必然的に年配者が多くなります。

 

日本には先人、先輩を敬うべきという文化があります。天理教内 は特に 理の親 という考え方がありその傾向が強いです。なので例え ジョーカー が改革を推し進めようと 提案 を出しても  たち全てが反対した場合、揉み消される可能性が非常に高いです。そして多くの場合、 は反対します。何故なら 変化を嫌うから です。

 

ジョーカー は絶大な権限を持ってはいますが、絶対 ではないです。もちろん A たちを 強制的に排除  する権限も持ってはいますが、それを無闇に 行使  すると組織自体のバランスが崩れて 崩壊 する可能性が高いです。

 

改革は段階的に徐々に行うのが無難です。気づいたら 「あれ?なんか変わってない?」くらいが丁度いいのではないでしょうか。本気で改革しようと思うなら、かなりの根気と忍耐力が必要です。相当な覚悟がなければ成し得られないと思います。

 

 

最後に

 

 

天理教 には 批判派? と呼ばれる人たちがいます。この人たちは凄く曖昧な 立ち位置  にいます。組織の内側にいるわけではないみたいです。しかしながら全く外側というわけでもないみたいで。。。 

 

その人たちはそんな曖昧な 立ち位置 であるにも関わらず何故か 組織改革 に躍起になっています。しかし、組織の内側にいるわけではないので 組織が改革されようとされまいと、この人たちの人生になんら 影響 はないと思われます。ハッキリ言って部外者なんですよね。そんな人たちが何故天理教の組織を改革する事に躍起になっているのか?とても不思議です。

 

強いて言うなら「やりたいからやっている」のでしょう。しかしながら、天理教 の組織は今、改革期に突入しつつあると僕は思っているのでそれだけは邪魔をしないようにしてもらいたいです。変に横槍を入れられて改革が滞るのだけはやめていただきたいと思います。

 

特に 中山大亮氏 の誹謗中傷だけは止めてほしいです。別に 氏 を擁護する気はないですが、ただ一つ確実なのは順当にいけばこれから行われる改革の中心は 氏 です。おそらくその事は本人も自覚されていると思われます。これから 氏 は改革の為に必然的に 骨身 を削らなければならない立場になります。ならば改革を望む者たちがやるべき事は 支える という事です。事実か嘘か分からないような情報で誹謗中傷して 氏 のモチベーションを下げていったい何の メリット があるのでしょうか?これからの長い道のりを完歩する為に必要なのは 足を引っ張る事 ではなく 後押し です。

 

氏 は 真柱後継予定者 ではありますが、教団内においてはまだ、運営にそこまでの影響を与えるポジションにはないと思われます。青年会長 ではありますが、青年会が教団内でそこまでの影響力があるとは考えにくいです。なので、組織改革が進まないことを 氏 のせいにするのは 御門違い も甚だしいです。

 

天理教の信仰者を 世間知らず とよく 揶揄 されているのを SNS 上で見かけますが、まず自分たちが  世の中 の仕組みを学ぶべきではないかと思います。

 

 

改革されようとされまいと 核 は変わりません。なのでやる事自体が大きく変わる事はおそらくないです。時代やニーズに合った システム や 形 になるだけです。僕達がやるべき事は日々淀みない歩みを続ける事だと思います。

 

日々精進です。 おしまい!!

 

 

 

 

 

 

変革の旬!!

皆さんこんにちは!!

 

新型コロナウイルスも大分落ち着いてきた感があるというか人間がこの状況に若干疲れはじめてる感というかピークよりは幾分かマシだけどまだまだ油断はできない今日この頃。いかがお過ごしですか。

 

離島の働く教会長です。

 

今回は、「受け継がれるべきもの、変わるべきもの」について思う事を綴ります。

 

 

目次

 

 

世界の変革期

 

今、世界は大きな 変革期 に入っているのではないかと感じます。それを連れてきたのは間違いなく新型コロナウイルス COVID-19 でしょう。このウイルスが蔓延してからこちら、世界の様相は多きく変わりはじめています。

 

勿論それは 天理教内 も例外ではありません。本部行事は軒並み中止、各教会での行事も自粛するよう本部から御達しが出ています。今まで何も考えなくてもその日がくれば何の弊害もなく務める事ができていた  月次祭 も月々の感染状況を観ながら、感染リスクを出来るだけ抑える為の配慮をしなければならなくなりました。

 

おそらくこのウイルスが 完全に終息する なんて事は起きないと思います。これまで行われていた 月次祭 のスタイルに完全に戻る事は不可能ではないにしろ、かなりの時間が掛かるのではないかと推察します。そうなると 必然的 に今までのスタイルを変えざるおえません。

 

月次祭 だけではなく、これまで行われていた諸行事も大幅に見直され、スタイルを変えるか、中には存在自体が無くなるものも出てくるのではないかと推察します。

 

この状況を思案する時、やはり今までのやり方を見直すべき 旬 なのではないかと思うのです。今まで何の弊害もなく、できていた事ができなくなるような事象が発生したその時、考えなければならないのは 本当にそれが目的を達成する為に必要な事なのか? ではないかと思います。

 

それを 判断 する為には、その物事の 本質 を理解していなければならないと思います。しかし、長く 習慣化 された物事はその 本質 がボヤけてきます。結果、本質 を掴もうとする事なく、その物事に意味があるという思考に陥りやすくなると同時に、変化を嫌う人間の心理も相まって 形 を変える事を何らかの理由をつけて拒もうとする傾向が強いです。その物事が 習慣化 されている状態に長く居れば居る人程、その傾向は強くなるのではないかと思います。

 

 

形は変えていくべきもの

 

 

自然の摂理としてある状態から全く変化がないという事はあり得ないと思います。仏教 の始祖 釈迦 の説いた 諸行無常 は本当に 真理 を突いていると思います。僕たち自身も僕たちを取り巻く環境も緩やかではありますが、確実に刻々と変化しているし、今この瞬間もし続けています。それは、人間が 進化 を望むからだと思います。人間は身体的にはかなり完成された生物だと思います。なのでこれからも急激な身体的進化はたぶん怒らないでしょう。しかしその代わりに 環境的進化 を望み、それを可能にするだけの 知能 を有しています。なのでこれから先も環境は常に 進化 し続けていくのではないかと推察します。環境が変われば人々の 価値観 が変わります。価値観 が変われば ニーズ が変わり、その ニーズ が新たな価値観を生む。このサイクルの中で人間世界の環境は現状まで 進化 してきました。そしてそれはこれからも続けていく事なのでしょう。

 

環境を変える事は システム を変える事。そう考えるなら システムを変える事なしに環境的進化はあり得ない ということになると思います。

 

教内 には 理の親 という 信仰的解釈 があるので一旦確立してしまった システムを変革する事 は中々に難しいです。信仰 において 親 は 絶対的存在 だからです。なので教内のシステムは 理の親 という解釈が生まれてからこちら、あまり大きく変化していないはずです。しかし、現代社会において、その システム が機能しなくなりつつあります。しかしそれは当然の結果だと僕は思います。何故なら 変化する という 自然の摂理 に反する事であるからです。確かに 親 の言葉は大切です。しかし 親の創ったシステム はその親が生きてきた時代の環境の中で親が感じ構築したものです。今は親が生きてきた時代の環境とは異なります。僕たちは今の時代の環境で生きています。ならば今の環境に適応できるようなシステムを再構築する事は必須です。

 

新型コロナウイルスにより、世界は強制的に システム を変革しなければならない状況になっています。このような状況になってきたという事を 信仰者 として真摯に受け止め対応していかなければいけないのではないかと思います。

 

 

受け継がれるべきもの

 

 

世界を動かしているもの。それは 思想や理念、そして 意志 です。この世のどんな もの にもその にはこれらの 概念 が必ずあります。しかしこれらの 概念 は目に見えるものではないので非常に 認識 しづらいです。目に見えるものしか追わない傾向が強い現代人には尚更だと思います。現代人、特に若い世代は 抽象的な概念 を理解する能力がおそらく低下しています。

 

目に見える形 思想や理念、意志 などの 概念 を具現化したものにしかすぎません。その 具現化 はその 概念 が生まれた時代の環境の 影響 を受けています。確かに当時は その形 がベストだったのでしょう。しかし時代の流れと共に人間は環境を 進化 させています。よって今の時代では その形 が必ずしも ベスト ではありません。もし ベスト を求めるなら、形は変化させ続けるべきです。時代に合わせて。。。

 

しかし闇雲に変化させればいいというものでもありません。何の為に変化させるのかを 明確化 する必要があります。

 

何故変化させるのか?

 

それは 本質 を 継承 する為です。本質 は 確信 であり 真理 です。故に 不変 です。そしてその本質 継承 する為には、その 本質 を理解するという作業をしなければならないと思います。

 

それを理解する為には、その 本質 が生まれた 背景 や 状況、経緯 を学ぶ必要があると思います。あくまで変えるべきは 形 であって 本質 ではありません。何故なら 本質 は先人たちが残してくれた世界と僕たちの未来をより良くする為の 財産 であるからです。

 

本質を変えようとする事は進化ではなく破壊であり、愚行です。

 

本質 とは 思想 であり、理念 であり、意志 です。これらの 概念 は抽象的であり、故に理解し難いものです。しかしこれらの 概念 こそ人間が求める 確信 であり、真理 であると思います。ならばこれらは 受け継がれるべきもの なのではないかと僕は思います。世界や僕たちの未来をより良くする為に。。。

 

 

最後に

 

 

形は変えるべき!! 

 

こういう事を言うと 古いものは全て変えてしまえばいい と理解する人たちがいますが、それは間違いです。何故なら既に ベストな形 であるものや 必須の形 であるものもあるからです。

 

それらを選別する為にはやはり 本質 を見抜く力が必要だと思うし、それを得るには一定水準の 知識 と 経験 が必要だと思います。なので 知識 や 経験 を得ない人による 改革や変革 はありえません。それら を得ない人ができるのは 改革や変革 ではなく 破壊 です。新たな形を一から創造するだけの力があるなら 破壊 も良いかもしれませが、そんな力を持っている人は稀で殆どの場合、破壊 が連れてくるのは 破滅 です。なので 破壊 をしようとする人は 自分が創造する力を持っているのか? をまず熟考すべきだと思います。

 

まあしかし、改革や変革 をするにしても 熟考 は 必須 であると思うし、一変するようなやり方はするべきではないと思います。改革や変革 のつもりが 破壊 になってしまう可能性も無きにしも非ずです。段階的に徐々に推し進めていくのがベストであると思います。

 

その形を維持する事 = 信仰 ではありません。形はあくまで信仰を具現化したもの。そう考えるなら、現在のこの状況は 信仰を見つめ直す旬 なのかもしれません。

 

おしまい!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

航海実習!!

皆さんこんにちは!!

 

段々と気温が上がりはじめ、夏の気配を感じる今日この頃、いかがお過ごしですか?

 

離島の働く教会長です!!

 

今回は、天理教 とは少し離れて、僕の学生時代の体験を綴りたいと思います。

 

目次

 

 

 

勉強嫌いだった僕

 

中学生時代、僕は本当に 勉強が嫌い な子供でした。どれくらい嫌いだったかというと、宿題をまともにやって行った記憶があまりありません。特に 春休み、夏休み、冬休み などの長期休暇は、始業式の日に先生に怒られるのが定番だった程です。グレたりとかではありません。ただ単に勉強が嫌いだっただけです。

 

3年生のある日、進路相談で担任の先生から「おまえの行けそうな高校は無い」と言われました。僕は勉強が嫌いだったので 高校 に行く気は端から無く、「高校に行く気は無いです」と言いました。すると先生からコンコンと説教される羽目になり、親にも連絡され、親からもコンコンと説教され、「高校だけは出ておけ」と言われました。

 

僕は、勉強嫌いではありましたが、グレていたわけではなく、親の言う事はとても良く聞く子でした。まぁ単に親が厳しくて面倒くさいだけだったんですが。。。

要は面倒くさがりの究極の イエスマン だったのです。なので、仕方なく 高校 を受験する事にしました。しかし特に入りたい高校もなかった僕は、高校を選ぶ事ができませんでした。当時僕はそれくらい 学ぶ ということに 無頓着 だったのです。特に未来への 展望 を持っているというわけではなかった僕。しかし、それでも 生きていかなければならない という本能的なものはあり、この世界で生きていく為に必要なものを考えました。そして行き着いた答えは 収入源、つまり 仕事 です。何の取り柄もない僕が仕事を得るには 何かしらの資格 を得た方がいいだろうと言う結論に達しました。

 

僕が生まれ育ったのは 瀬戸内海 の 島 です。島の生活に欠かせないもの、それは 船 です。島の外に出るには船に乗るしかありません。また、父親は定期フェリーで働いていた事もあり、船乗りは僕にとって最も身近な仕事でした。

 

「よし、船員の資格を取ろう!!」

 

と思った僕は、船員の資格が取れそうな学校を探しはじめました。船員の資格が取れる学校と言ってもどんな船の船員になるのかによって様々な種類があります。

 

主に漁師を養成する事を目的とする 水産高校、日本の国内航路の船員を養成する事を目的とする 海員学校主に外国航路の船員を養成する事を目的とする 商船高等専門学校僕は 商船高専 に行く事にしました。理由は、何となくです。しかし今思うのは、この何となくの判断は間違ってなかったということです。色々な意味で。。。

 

商船高専は日本に5校あって当時は全て 国立 でした。その中から瀬戸内海にある学校をピックアップし、更に レベルの低そうな方 を選んで受験しました。結果は見事に合格です。当時、先生たちは、僕が国立の高専に合格する事はまず無いだろうと思っていたらしく、合格の通知が来た時、まだ授業中であったにも関わらず、職員室にいた先生が猛ダッシュで教室に飛び込んできて、合格の報告をされたのを今も鮮明に覚えています。僕は勉強は嫌いでしたが、できなかったわけではないのです。やらなかっただけで、やれば実はできる子だったのです。

 

実は、商船高専に入ろうと思った最も大きな理由は、実習で海外に行ける と書いてあったからです。当時、人並みな生活をしていたとは言え、旅行 なんて 遠足や学校の研修、修学旅行 くらいしか経験がない当時の僕にとって、実習とは言え海外に行けるというのは大きな魅力でした。勉強よりも海外に行きたいというとても不純な動機なのです。

 

 

学校生活

 

 

学校生活は良くも悪くもいい経験でした。高専高校 専門学校  をミックスしたようなシステムで、3年生までは主に一般科目を学び、4年生から専門性の高い授業が増えます。1年生は中学校卒業したての15歳、5年生は成人間近若しくは既に成人している人たち。はっきり言って歳の差があり過ぎて世界観が全然違います。なかなかに先輩達には気を使ったものです。下手な事をすると 可愛がられ ますからね。。。

 

勉強は相変わらず嫌いでした。なので成績は常に底辺、サブマリン状態 でした。しかし、留年する事なく卒業できたのは、優秀な友達に恵まれた事と、優秀ではない友達に恵まれた事、そして寮生活であった事が大きな理由だと思います。

 

寮生活の良いところは、四六時中友達がすぐ近くにいるという事です。つまり、分からないところは優秀な友達に手軽に教えてもらいに行けるんです。そして、テスト前になると優秀ではない友達が先輩から過去の問題を調達してきます。つまり、優秀ではない友達のところで過去の問題を調達し、優秀な友達に教えてもらう。このシステムがなければ、僕は間違いなく、卒業できてはいないでしょう。それでも毎年 追試 のレギュラーメンバーだったので、春休みは半分潰れていました。しかし、それが功を奏して、春にある 天理教 の行事には参加しなくて済みました。当時は 天理教 は大嫌いだったので。。。

 

 

航海実習

 

 

商船高専を卒業する 3級海技士 という資格の筆記試験が免除になります。海技士の資格は 6〜1級 まであって、1級が最も大きな資格で外国航路を走るような巨大な船の船長ができます。6級の試験は筆記試験だけですが、5〜1級の資格には筆記試験と口述試験があって、両方をパスしないと取得できません。口述試験を受けるには 実務経験 が3年(現在は2年)以上必要です。その実務経験を免除する為に、1年間の実習を同等のものとしてくれるシステムがあります。それが 独立行政法人航海訓練所 での 航海実習 です。そこでの実習の後、口述試験をパスすれば海技士の資格が取得できます。

 

航海訓練所では、高専での単位を取得した全国にある5校の学生たちが一緒に実習を行います。

 

カリキュラムは帆船での実習が約6ヶ月、タービン船での実習が約3ヶ月、ディーゼル船での実習が約3ヶ月の約1年間です。

 

航海訓練所には帆船は2隻あります。日本丸海王丸 です。僕たちの年は 海王丸 で実習しました。船は東京から乗船するように案内がありました。人生初の上京です。初東京です。今まで、瀬戸内海の島、上っても奈良県までしか行った事のない男が、はじめて東京砂漠に降り立つわけです。今まで山と海に囲まれて育ってきた者にとって東京はまさに異世界でした。「ここは日本か?」と思える程に。

 

右も左も分からないという表現がぴったりな程見事に迷子になりました。仕方なく人生初タクシーを使う事にしました。タクシーの運転手さんに場所を伝えるとものの10分程度で目的地に着きました。「世の中にこんな便利な乗り物があるのか?」度肝をぬかれたのを今も覚えています。

 

 

 

帆船実習

 

 

航海訓練所での思い出はいっぱいあるけど、印象が強いのは 帆船 海王丸  での実習です。

ちょっとマニアックな話しになりますが、帆船にも色々な種類があるのですが、大きく分けると3種類になります。スクーナー型、バルカン型、バーク型 です。スクーナー型は切り上がり性能に特化していて、比較的小回りが利きます。バーク型は小回りは利きかないけど、直線の伸びがよく、船速に特化した型。バルカン型はスクーナー型とバーク型の中間、バランスの良い型です。

 

帆船 海王丸 は  バーク型、最高スピードに特化した型です。

 

総トン数は約2,500トン、全長は約110m、マストの高さは約50mです。印象としては デカイ です。

 

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乗船して3日目にマストの1番高い白くなっているところまで登らされます(通称、ロイヤルタッチ)。理由はマストに登れないと実習が成り立たないからだと思われます。一応安全帯は着けていますが、登っている最中は使用しないので、丸腰状態です。普通に恐いです。落ちたら死にますからね。。。

実際転落事故も過去にはあったみたいです。帆船実習は 命がけ なのです。

 

帆船実習 と言っても船にはエンジンが装備されていて、エンジンを使用して走る 汽走 が殆どです。しかし、最後の3ヶ月は、実習の集大成として、日本〜ハワイ間を 帆走のみ で横断する 帆走実習 があります。

 

 

僕達の年は年明け4日に横浜の港から出航し、東京湾を出てある程度までは汽走で航行し、次の日くらいに 展帆 し、帆走 に切り替えたと記憶しています。

 

帆走とは、帆を張って風の力を利用して航海するということです。勿論エンジンは停止しています。(発電機は運転しています。)

 

凄く静かです。しかし、帆走中は船体がリーサイド(風下側)に常にやや傾いている状態になります。風が強ければ強いほどその傾きはきつくなります。常に地面が斜めっている生活です。

 

航海中は航海当直に入ります。実習生は3班に分かれて、0〜4時、4〜8時、8〜12時3パターンの当直に入ります。基本 当直実習 がメインですが、当直はローテーションで変わり、ローテーション日に座学の授業が組み込まれたりします。1班約10人の班が6班あり、2班づつ合同で同じ当直に入ります。帆走実習は、展帆と畳帆、ヤードの向きを変えたりを繰り返しながら航行する為、思いのほか人でがいります。当直班で間に合わない場合は、休憩している班が応援に入ります。

 

帆船は常に全ての帆を広げて走るイメージがあると思いますが、そんな事はありません。寧ろ全ての帆を広げて走る方が稀です。帆走は当然ながら、風がないと推進力を得られないので、できる限り 低気圧 を追って航海します。なので基本毎日 台風並み の嵐です。風が強すぎると帆が破れる可能性が高くなるのと船速を安全域に調整する為、帆を縮帆し、畳帆します。縮帆はデッキでロープでできるようになっていますが、畳帆の為にはマストに登って 綺麗に畳み固縛しなければなりません。帆は高いところのものほど破れやすいので風が強すぎると必然的に何人かマストを登って畳みに行かなければならないのです。

 

登り降りはウェザーサイド(風上)から行います。風が強いと船体がリーサイドに傾いている為マストも垂直より若干傾いているので意外に登りやすいです。風も強いので身体がマストに押し付けられる力が働いたらいていて、何となく安心感は高まります。(でも作業中はめっちゃ恐いです。)マストの上の方に行けば行くほどデッキにいる人がアリンコみたいに小さくなります。下で教官に指示されても何を言っているのか全く聞こえません。だから作業はいつも テキトー です。でもあんまりテキトー過ぎると後から乗組員の方が登って手直しをしなければならなくなります。所謂二度手間です。あんまり多いと怒られます。

 

航海中は基本毎日嵐なので、デッキには安全ロープが張り巡らされていて、それを掴んで移動します。波高は約10m。落水したら間違いなく行方不明になって死にます。

僕たちの年は船長の腕が良かったのか比較的順調に風捉えることができて、予定よりずっと早くハワイに着いてしまいそうになり、1週間くらい時間調整で海を漂っている状態がありました。早く着いたからと言って早く入港できるわけではなく、やっぱり申請を出した日にならないと入港できないのです。漂っている状態の時は本当に 暇 でした。しかし ピースフル でした。ホエールウォッチングとか普通にできました。船にイルカやクジラが寄ってくるのでウォッチングしなくても普通に見れます。

 

ハワイ沖に到着すると入港手続きが済むまで、錨泊 して待機します。その時に無事にハワイに到着できたお祝いに 宴 がもようされます。

今思えば、あれこそまさに 宴 でした。あの時の 宴 に比べれば、巷の 宴 などただの遊び事だと思えるほど 宴 でした。喩えるならもっとも近いイメージは ワンピース の宴です。羽目を外す とはまさにあの事を言うのでしょう。無礼講 の世界がそこにはありました。

 

 

僕が学んだ事

 

 

この帆船実習で僕は日常生活では経験できない事を数え切れないほど体験し、学ばせていただきました。その中で最も強く感じたのは 人間の無力さ と ちっぽけさ でした。

 

世界は繋がっています。どこまでも果てしなく。境界線なんて地図の上での  です。リアルに 国境 などありません。そんなちっぽけな概念が馬鹿馬鹿しくなるほどに世界はどこまでも繋がり、広がり、全てを包み込んでいます。僕たちの ルーツ はきっと一つです。

 

帆船 はどんなに船長が優秀だったとしても、1人では動かす事ができません。多く人たちの強力な協力があるからこそ動かせます。そして何より この世界が生み出す力 無しに動かす事は出来ないのです。

 

きっとこの世界も協力し合わなければ生きていけないようになっています。その為に必要な事は 自分の無力さ を知る事と、お互いが理解し合いたすけあう事 ではないかと思います。

 

僕たちの住む国、現代日本は、便利過ぎるほど便利な世の中です。その便利さが、人間1人1人を高慢にしている のではないかと思います。この日常は まやかし です。世界の本質は僕たち人間が測りきれない程 雄大で壮大 です。その本質の上にこそ まやかし は成立し得るのです。その事に気づく人たちは 自分の無力さ を知っている人たちだと思います。そしてこの現代日本には 自分の無力さ を知らない人たちが多すぎる。僕はそう思います。

 

僕たちが今、認識すべきは、この当たり前の日常が如何にまやかしであるか」という事ではないかと思います。ちっぽけな人間が、1人1人好き勝手に生きて、それで世の中が回る程、たぶん世界は甘くない。僕はそう思います。

 

おしまい!!

 

 

 

 

 

 

「欲」こそが原動力!!

皆さんこんにちは!!

 

本日、天理教鍵垢コミュニティー村に入村した男、離島の働く教会長 です。

 

今回、【欲】について考察したいと思います。

 

目次

 

 

欲の本質

 

 

皆さん 欲 はありますか?僕はあります。欲 がない人なんてたぶんいないですよね。そもそも 欲 がないと身体の生命維持や子孫繁栄すら危ぶまれ兼ねない事になります。食欲 がないと食事をしようと思わないし、食事をしないと生命活動に必要なエネルギーが枯渇します。睡眠欲 がないと寝ようと思わないので、身体が休息できないし、休息できないと消耗した部分が回復しないです。性欲 がないと SEX しようと思わないし、SEX しないと子孫繁栄は成り立たないです。食欲、睡眠欲、性欲 これらは人間の 三大欲求 と言われているし、欲 がなければ人間は生きてはいけません。

 

僕が信仰している 天理教 の 教理 の中に 八つの埃 という教えがあります。人間の人生と運命を悪くする 心の在り方 を 埃 に例えと説かれていて、日々戒めるようにと教えられます。その 八つの埃 の中に 欲 があるのです。

 

なので 天理教 では 欲 は人生を駄目にする 負の要素 としての イメージ が強いです。しかし、欲 は前述したように人間が生きていく上では、切っても切れない要素です。天理教 の信仰者は 欲 という感情を嫌うけれど、僕は 欲こそ生きる原動力 であると思っています。

 

天理教 の 八つの埃 の教理は、人生を豊かにする要素も持っていると僕は考えています。人生を良きものにする為に必須なものという側面がある感情、それが 八つの埃 の本質だと思います。しかしだからこそ、過剰になってしまいやすい感情 であるとも思っています。何事も 過ぎたるは及ばざるがごとし、過剰になると悪い影響が出るもです。だから、埃 として戒める事で 過剰になる事 を抑止する為に説かれたのが 八つの埃  の教理であると僕は理解しています。

 

つまり、八つの埃 となり得る要素はうまくコントロールしさえすれば、人生をより良く切り拓き、豊かにしてくれると思うんです。

 

特に 欲 はある意味人生を左右する キー 的な要素ではないかと思います。

 

 

僕たちは何故生きているのか

 

 

僕たちは何故生きているのか?

 

それは、しあわせ になる為です。ではどうすれば しあわせ になれるのか?それは、しあわせ になろうとする努力が必須です。その 努力 をする為の 原動力 は しあわせになりたい という 欲求 です。

 

これは僕たち 天理教 の信仰者にも当てはまる事で、僕たち 天理教 の信仰者が目指すものは 陽気ぐらし ですが、そこを目指す 原動力 は 陽気ぐらしをしたい という 欲求 です。

 

天理教 の教えの性質は、利他 であると理解しますが、その 本質 は 利己 であると思います。

 

人をたすける事が信仰生活の要となる 天理教 の教えは 利他主義 になるのではないかと思います。そして 利他 のその先に 陽気ぐらし世界の実現 があります。ではその 陽気ぐらし世界 は誰が望んでいるのか?それは 親神様 です。では 親神様 は何故 陽気ぐらし世界 を望んでいるのか?それはその 世界 が人間が しあわせ になれる世界だからです。そして僕たち人間は、その世界を目指すように プログラム されています。それが しあわせになりたい という欲求であり、それは 利己 です。

 

つまり、人間は 利他 の中に 利己 を 共有 できるという大変 矛盾 した生き物という事になると思います。

 

利他 の起点は自分です。自分という存在があるからこそ 他 に 利益 を与える事ができます。他に利益を与える為には、自分が健全である事が大切であり、その為にはある程度 利己的 でなければならないと僕は思います。重要な事は 利他的 である為に 利己的 であるという事です。

 

 

最後に

 

 

おやさま はこんな言葉を残されています。

 

人間は我が身可愛い一条に通るところにほこりができますのやで。

 


八つの埃と言うけれどもなぁ

 


煎じ詰めれば一つになるで

 


それはなぁ我が身可愛い一条やで

 

おやさま が戒められたのは、我が身が可愛い と思う心ではなく、我が身が可愛いと【一条】に思う心であると理解します。

 

天理教 の信仰者は、八つの埃 教理 の影響で自分を大切に思う事を 悪 と思っている人が多いですが、自分の存在も 親神様 の 御守護 があればこそこの世に存在できているし、そう考えると、自分という存在はとても尊い存在です。なのでもっと大切に思うべきだと思います。

 

欲 は生きていく為に必須の 原動力 であると僕は思います。信仰生活では、戒める という事にフォーカスしてしまいがちになるけど、完璧に払拭する事が不可能なのなら、上手くコントロールする事で 自分にも他者にも利益を及ぼせる道を模索するしかないと思います。何故なら しあわせ は 幻想 で終わらせるべきものではなく 実現 するものなのだから。僕はそう思います。

 

おしまい!