離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

新年の御挨拶!!

 

遅ればせながら、明けましておめでとうございます。

 

昨年は新型コロナウイルスの蔓延により、世界が例年とは違う在り方を求められた1年でした。そしてそれは本来どうあるべきなのか?を考えさせられた1年だったのではないかと思います。

 

本年も変異種の出現により、新型コロナフィーバーはまだまだ続きそうではありますが、皆さまにとってこのコロナ禍が成長の糧となるよう祈ると共に、自分自身も成長の糧とできる生き方ができるよう、努力したいと思う今日この頃です。

 

今年の抱負は、人畜無害!!

 

プリっと一皮剥けた、地球にも人間にも優しい男を目指します。

 

そしてわたくし。。。

 

2021年。。。

 

結婚します!!!

 

という事で結婚相手を随時募集しております。

自薦他薦は問いません。

 

私、と《恋をしてもいいよ♡》という方、こちらの宛先までメッセージをください。

 

沢山のご応募、お待ちしております。

 

それでは本年も1年、どうぞよろしくお願い致します。

凡才という才能!!

この世界には二種類の人間しかいない。

天才凡才である。

 

どちらが凄いのか?

 

この問いは極めて愚問だ。何故ならばどちらも世界には必要でどちらが欠けても世界は成立しないからである。

 

しかしながら昨今、持て囃されるのはもっぱら天才だけである。

 

天才凡才の違い。それは0から1を生み出せるか、出せないかだろう。

 

最近は0を1にできる人たちをカリスマなんて呼んだりする。そのカリスマだけで世界が成立するのかと問われれば答えはである。

 

寧ろカリスマなんて呼ばれる輩は一つのコミュニティーに一人で充分である。

 

確かにカリスマと呼ばれる人たちは優れている。想像力、行動力、人間的魅力。だから0を1にできるのであるが、結局、1止まりである。0を1にするには確かに大きな労力を有するが、人一人ができる事は結局のところ1が限界だ。

 

その1を100や200、それ以上に昇華するには、多くの人々の協力が不可欠である。

 

世界を創ってきたのは天才たちなのかもしれない。しかし世界を回しているのは凡才たちである。だからこそ、どちらも必要で尊い存在なのだ。

 

人間は自分に無いものを望む。故に希少である天才が持て囃される。圧倒的に多い凡才がその才能を羨望するからである。

 

しかし凡才天才にはなれなし凡才のようには生きられない。ならばすべき事はお互いを尊重し、協力する事であろう。

 

とは言っても、特別な存在というステータスに人間は弱い。誰もが自分が特別でありたいのだ。

 

故に凡才は天才に憧れ、近づこうと努力する。平凡を憂い、非凡を望む。

 

しかし、凡才が圧倒的に多い世の中で天才をクローズアップしたところで得るものは少ない。何故なら、凡才は天才になれないからである。

 

天才には天才の生き方があり、凡才には凡才の生き方がある。

 

この相容れない生き方が調和するからこそ、世界は成立するのだ。

 

凡才天才になろうとする必要はないし、どこまで行っても凡才凡才である。ならば凡才である事を極めればいい。極めれば天才すら凌駕すり大きな才能になるだろう。

 

天才が増えすぎると調和を保つのは難しい。単独である程度の事を成立させる才能があるからである。そして現代社会は天才を求め過ぎている。故に、世界はバランスを保て無くなってきている。

 

今という時代だからこそ凡才という才能をもっとクローズアップすべきではないかと思う。

 

天才の必要度は思いのほか低い。

 

 

 

 

 

 

 

いんねんについての考察!!

 

今回は、いんねん という概念に対する悟りが大分深くなってきている感じが最近するので、現在の思考を整理する為の言語化として備忘録に綴ります。

 

よろしくお願いします。

 

※あくまで個人の見解です。

 

教内では、いんねん には良いいんねん 悪いいんねん があると認識している人が多いと思います。僕も最近までそのように認識していました。しかし、本当にその認識でいいのでしょうか?

 

親神様は人間の陽気ぐらしをするのを見て楽しみたいと思い、この世界と我々人間を御創造されました。陽気ぐらしをする為に悪いいんねんという要素が果たして必要なのでしょうか?悪いいんねんがある事で苦しみ悩んでいる。そういう人を僕は今まで何人も見てきました。

 

陽気ぐらしをする状が親神様の望みなのであれば、いっその事悪いいんねんは必要無いのではないかと思うのです。

 

この疑問を思案する時、やはり「かしもの、かりもの」の教理がキーになるのではないかと思います。

 

親神様は人間を創るにあたって、身体を借すというシステムを採用しています。そして、心は自由に使う事ができるようにしています。人間は心で身体をどう使うかを自由に決めて使う事ができる。これが所謂かしもの、かりものの教理です。

 

心が自由という事は必ずしも陽気ぐらしの為に使うとは限らないというリスクを伴います。なので身体は借すというシステムにして主導権が親神様にある状態にしているのだと思います。陽気ぐらしに反する使い方をすると身体に注意や警告を発せられるように。

 

この注意や警告は人間の心遣いの間違いに対して発せられていて、その心遣いを反省する手掛かりとして教えられているのが八つの埃です。

 

このシステムに込められた親神様の思いは自主性だと理解します。つまり、人間が自ら自主的に親神様の望まれる陽気ぐらしをする状を見たいという思いが込められていると理解します。

 

人間は魂に身体を借りています。この魂は消滅する事はなく、身体を借りては返すを繰り返しながら、この世界に留まり続いています。これが出直しの教理です。

 

僕は魂は心の核だと理解します。心の原動力となる核。心と魂は別々のもので、その別々のものが一つになる事で機能しているのだと考察します。喩えるなら、心がiPhone で魂がSIM カードみたいな、そんなイメージです。

 

魂は陽気ぐらしをする為に創られたものですが、元々は何にも染まってない只々純粋無垢なものだったのではないかと推察します。その純粋無垢な魂を人間の心遣いによって自らの力で陽気ぐらしのできる魂に成人させてほしいというのが親神様の思いではないかと推察します。

 

しかし、その真実を知らない人間は生まれかわりを繰り返す間に陽気ぐらしに反する心遣い(八つの埃)をも使ってしまい、埃が積もり重なり、核である魂にまで浸透して汚れてしまい、陽気ぐらしできない状態になっている。この状態になるといくら心の埃を払っても核である魂までは浄化されない。

 

そこでこの魂の汚れを自覚させ、浄化させる為に見えてくる姿が、巷で言われる所謂悪いいんねんの姿なのではないかと思案します。

 

八つの埃も巷で悪いいんねんと認識されているものも、共通しているのは成人の為の要素であるという事だと思います。ただ八つの埃は成人させる対象が心であり、悪いいんねんと認識されているものは成人させる対象が魂である。こう考えるとき、僕たち人間が悪いいんねんの姿だと思っているものは、魂を成人させる為には必要なものであり、陽気ぐらしの為のいんねん、つまり、元のいんねんによるものになるのではないかと考察できます。

 

結局、良いいんねんとか悪いいんねんとかという仕分けは人間が勝手にしているものであって、見えてくる姿は全て陽気ぐらしの為の元のいんねんによるものではないかと思えます。

 

また、僕は、魂の汚れが心に滲んで浮き出たものが癖、性分なのではないかと思っています。癖、性分が心を侵食して埃を誘発する呼び水的な役目をしているのではないでしょうか。八つの埃の要素は人生をより良くする要素、つまり、陽気ぐらしに必要な要素でもあると僕は考えます。それが癖、性分により埃になりやすい心の状態になっているのではないかと考えます。

 

世界は人間の心通りの姿が見えてくるようになっています。いんねんの姿の元は埃で、埃の元は癖、性分となり、結局、僕たちが見ている世界は、自分の癖、性分の姿ではないかと思えてきます。その癖、性分も元々は埃であり、結局は埃を払う事が陽気ぐらしに繋がるというとてもシンプルな所に着地します。

 

心の成人とは癖、性分をとる事で、癖、性分をとる事が埃を払拭する事になり、魂の成人に繋がる。そして癖、性分をとる行いこそ、たんのうだと思います。

 

心の成人は陽気ぐらしの為の今世の課題で、魂の成人は生まれかわる中で段々と達成される課題なのではないかと思えます。

 

今回はいんねんについて考察しました。結論としては、良いいんねんとか悪いいんねんは人間が勝手に創った概念、という所に着地したわけですが、ここでどうしても解決しなければならない矛盾が発生してしまいました。実は逸話篇に白いんねん悪いんねんという表現がされているものがあったのです。

 

天理教教祖傳逸話篇九〇【一代よりニ代】

 

明治十四年頃、山沢為造が、教祖のお側へ寄せて頂いた時のお話に、

「神様はなあ、『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている。』と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。」

 と、かようなお言葉ぶりで、お聞かせ下さいました。

 

普通に読んだら、いんねんには白(良い)いんねんと悪いんねんがあって、代を重ねる毎に悪いんねんが白いんねんになるという解釈になるのではないかと思います。でもこれだとちょっと短絡的過ぎる感じもしなくもないです。

 

それでは今回の僕の着地地点からこの逸話篇を解釈していきたいと思います。

 

※あくまで個人の解釈です。

 

『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている。』

 

この下りは、親を引き寄せたという事はその子供達も引き寄せているという事だよ。という事だと推察します。

 

一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。

 

この下りは、血統的な代という解釈もできますが、僕は一人の人間が生まれかわる中で段々と成人して陽気ぐらしの理が深くなっていき、末代の理、つまり陽気ぐらしができる魂になるという事だと推察します。

 

人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。

 

この下りは、人それぞれの今世の心によって、一代で成人できる者もあれば、ニ代、三代と生まれかわらないと成人できない者もある。また、それ以上の者もある。成人していけば、悪いいんねんと思うような事でも白いんねん(成人に必要ないんねん)だと理解できるようになるという事だと推察します。

 

今回はいんねんについて考察していきました。これはあくまで個人の解釈ですが、誰かの成人の一助になれば幸いです。

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

優しい男はエロい説!!

皆さんこんにちは!!

 

めっきり寒くなり、冬の訪れを感じずにはいられない今日この頃。如何お過ごしですか?

 

離島の働く教会長です!!

 

最近、20代〜30代前半の人達とのジェネレーションギャップを突きつけるられる出来事があり、僕ももう若く無いんだな〜としみじみ思っています。

 

今年ももうすぐ終わり。一年なんか「あっ!」と言う間です。このままのスピードで世界が進んだら、「あっ!」と言う間にジジイになってしまう。。。

 

という危機感に苛まれながら、よぼよぼになる前に何かしらの爪痕を残したと息巻きつつ、実際は、押し寄せてくる現実を捌くのに手一杯で、進みたい方向に進めないジレンマを抱えながら、大丈夫、大丈夫。と自分に言い聞かせて、何とか正気を保っている今日この頃です。

 

僕ももうすぐ40歳。まさかこんな歳になるまで結婚できないとは思っていませんでした。離島くんならすぐ結婚できるよ。と言われ続けて何年の月日が流れたでしょか?もしタイムスリップが出来るなら、自分に言ってあげたい。

 

「騙されるな、唆されるな。お前はそんな簡単に結婚なんかできない。これから何年も何十年も彼女おらんのか?とかいつ結婚するんだ?とか女に興味ないの?とか、そんな罵詈雑言を無責任な奴らに浴びせられる日々が待っているんだぞ。いいか、これだけは言っておく。どんな事よりパートナーを探す事を最優先しろ。出逢いのチャンスはそう多くは無いぞ!!」

 

と。。。

 

さて今回は、僕の偏見シリーズをお届けします。題して「優しい男はエロい説!!」です。

題名はかなりふざけてますが、書いてる本人は糞がつくほど真面目に書いています。

 

※尚、この記事には不適切な表現が含まれております。ご了承の上、お読みください。

 

それではよろしくお願いします。

 

先ず断言します。優しい男は100%エロいです。これは紛れもない事実です。優しければ優しいほどエロさの純度も増していきます。

 

それは何故か?優しい男は真面目で誠実だからです。そして他人の喜びを自分の喜びにできる献身性を持っています。これは全ての分野において言える事です。もちろん性的な面においても。つまり、SEXにおいて、パートナーが気持ち良くなる事により彼らの性的興奮度は上がっていくと言う事です。これを変態と言わずして何を変態と言うのでしょう。優しい男たちはSEXにおいてはドSです。

 

SEXをすれば、優しいか、優しくないかは、かなりの高確率で判断できます。それはSEXが究極のスキンシップだからです。

 

前戯もそこそこに挿入しようとする奴は、確実に優しくはないです。ただ性欲が強いだけです。性欲が強い事とエロい事は違います。優しさが無ければエロくはなれません。

 

どんな事も経験はある程度必要ですし、少なからず相性という要因も影響は及ぼすので、単に下手だからだけで優しく無いとは言い切れませんが、SEXが上手い人は100%優しいと思って間違い無いです。

 

そしてハゲている人は確実にエロいです。

 

詳しくはこちらの記事をご覧ください。

 

https://captainace.hatenadiary.com/entry/2020/02/28/140258

 

SEXは愛の深さが如実に現れる行為です。愛の深さは優しさの深さでもあります。その行為を拒絶するまたは満足が得られ無い状態というのは、愛が無いまたは浅くなっていると言えると思います。

 

そして最後に衝撃の事実を。実はこの理論は女子にも当てはまります。

 

つまり、優しい女子は。。。

 

今回は僕の偏見シリーズ「優しい男はエロい説!!」をお届けしました。これは僕の偏見に染まり切った理論なので、正しいわけではないですが、かなり参考になる理論ではないかと自負しております。

 

最後に、不適切な表現の数々をお詫び申し上げて終わりとします。

 

ありがとうございました。

 

 

 

この糞ったれの世界で!!

 

この世に平等なんてものは無い。あるのは気持ち良い程、純粋な理不尽だけだ。この世の中は不条理。生まれる場所を環境を誰が決めた。親をきょうだいを誰が決めた。時代を誰が決めた。備わった才能を誰が選んだ。この世に存在できる時間を誰が決めた。分からない。誰かはだといい、誰かは運命だというけど、そんなものはどっちだっていい。ただ確実なのは自分では決められない。その事実だけ。

 

僕たちは結果を選べない。選べるのは過程だけ。できるのは努力だけ。それを選んだところで望む結果を得られるとは限らない。努力したからといって報われるとは限らない。これを不条理と言わずして何を不条理と言えようか。

 

それでも僕たちは生きていかなければならない。命(じかん)が尽きるまで。この不条理な世の中で。理不尽を掻き分けながら。誰もその理不尽を代わりに掻き分けてはくれない。自分の力で掻き分けていくしかない。

 

この世は灰色だ。信じられるものなど皆無。あるのは信じる信じないかの選択肢だけ。信じたものが白になり、信じなかったものが黒になる。自分が白にしたものにだけ自分が持ってる色を塗れる。でも持っている色の種類も数も違うから出来上がりは全部バラバラ。

 

子供の頃はよく「他人(ひと)の気持ちが分かる人になりなさい。」って言われたけど、大人になって思うのは、他人の気持ちなんてそんな簡単に分からないって事。だから人間は言語をあみだし、発達させてきたんだろう。何も言わない人の気持ちなんか分からないし、言った事が本当かどうかも分からない。仕草や行動である程度読む事はできるけどそれも正解かどうかは分からない。

 

たまに何も言わないのに「誰も自分を理解してくれない。」って言う人がいるけど、そんなの分からなくて当たり前。分かってほしいなら伝えないと。誰も代わりにあなたの気持ちを伝えてはくれない。自分の気持ちは自分で伝えるしかない。

 

子供の頃、入学式や卒業式で「君たちには無限の可能性がある。」なんて言葉をよく聞いたっけ。でも大人になって思うのは、「可能性なんて皆無だったんだな〜。」って事。子供の可能性なんて0%だよ。可能性はあるものじゃなくて創るものだから。何もしない人の可能性はどこまで行っても0%。結局大人は無責任なんだよね。いつの時代も根拠のない励ましをする。でもそれ止めた方がいいよ。誰の為にもならないから。

 

人間は所詮、自分第一だから。身内はともかく、他人に興味なんか殆ど無い。自分にメリットがある人以外には。天理教では人だすけをしましょうってよく聞くけど、それはそれをやれば自分がしあわせになれるって大前提があるから。もし人だすけしたら不幸になります。って言われたら誰も人だすけなんかしない。そんなの当然の事なのに「人をたすけるのは自分がたすかりたいからだ。最低だ。」なんて人がいるけど、人間そんなもんだよ。あなただってそんなもんでしょう。「そんな最低でもなんでも無い事を最低にするあなたが最低だよ。」と僕は言いたい。もういっちゃったけど。

 

とにかく言いたいのはこの世界は糞ったれだ」って事。でもそんな糞ったれな世界で一生懸命生きていこうとする人間はやっぱり尊い。だから生きていこう。愚直に。誠実に。どこまで。

 

 

 

 

ジェネレーションギャップ!!

最近、強烈なジェネレーションギャップを感じた出来事があったので備忘録として記しておこうと思う。

 

きっかけはある動画だ。その動画はあるラッパーのMV(Music Video )なのだが、その舞台となっているのが天理教の教会の神殿なのだ。

 

僕は全て拝見したが、なかなか斬新な仕上がりとなっていた。

 

しかし、それ以上に衝撃的だったのがその動画を高く評価している天理教信仰者が多かった事。「良い」「凄く良い」と評している人が多い事に僕は驚きを感じずにはいられなかった。

 

「こういうのが受け入れられる時代になったんだなぁ〜」と理解はできるが、良いと思う感覚についていけなかった自分は、恐らくこれからの時代、淘汰されるべき人種なのかもしれないが、その前に問題提議をしておこうと思う。

 

第一に、神殿は神聖な場所である。信仰者にとっては聖域と言っても過言ではないだろう。世界の平和を祈り、人のたすかりを祈り、自らの心遣い、行いを省み、心を浄化する。そういう神聖な場所なのである。神の仕事場と言っても過言ではないだろう。そんな場所で人間の創ったラップなるもののMVを撮影するなど僕的には言語道断である。

 

天理教は陽気ぐらしなんだし、動画は陽気な感じだし、神様も喜んでるよ。」という人がいるかもしれない。確かに神様は陽気な状を喜んでくれているのかもしれない。しかしこれは神様が喜ぶ、喜ばないの話ではなく、僕たち信仰者が神殿をどう捉えているのか?という話なのである。神殿でこういう動画を撮影しようとする発想が出てくる事自体が神殿という場所を軽視しているし、それを許した人たちも軽視していると感じずにはいられない。

 

「いい布教やにをいがけになる」という人もいるかもしれない。確かにそういう側面もあるだろう。しかし布教やにをいがけの為なら何をしていいというわけでもないと思う。それが神を冒涜したり軽視する行為となるならどんなに布教やにをいがけになっても本末転倒であると僕は思う。いや本人的には冒涜や軽視をしているつもりは無いのかもしれない。しかしリスペクトもしていないだろう。少なくとも僕は感じない。

 

そして最も納得いかないのは、教会という場所に対するリスペクトが全く感じられないという事。いや、本人はリスペクトしているのかもしれない。しかし動画を観る限り、全くもって感じられない。教会とは先人、先輩方が長い年限をかけて運び、尽くした孝心の理により成ってきたものである。つまりそこには数多の人々の想い意志が詰まっている。教会とはそういう場所なのだ。にも関わらず、そういうところに配慮されていない演出に腑が煮えくりかえる思いでいっぱいだ。

 

次に言いたい事は、教会は家ではない。教会は教会なのだ。教会に住んで居るからと言って教会家族が全てを好きに使っていいという場所ではないのである。特に神殿は特別な場所だ。この撮影をするにあたって、ちゃんと信者さん達の許可は取ったのだろうか?「実家」というタイトルをつけているあたり、十中八九そんな話しはされていないと推察する。

 

僕たち現代の信仰者はそれが当たり前であるばかりに、雑な扱いをしている部分が多い。これは僕自身、大いに反省すべきところである。しかしながら、もっと問題なのは雑に扱っている事に気づかないという事ではないだろうか。もう少しそこら辺の感覚と向き合うべきなのかもしれない。

 

それにしてもこの動画が有りだと思う信仰者が思いのほか多い事には驚きである。神殿という場所が神の聖域という感覚から人間の領域という感覚にシフトしてきているのだろうか?これが良い事なのかどうかは判断しかねるが、神殿はおぢばの理を拝戴した神実様をお祀りしている場所である事を鑑みると、それなりの敬意と節度を持った配慮がなされるべきところであるのではないかと思う。可愛いおばあちゃんが出てくる動画は神殿じゃなくても撮れるし、素敵な家族の動画は神殿じゃなくても撮れる。

 

 

神殿という場所と真摯に向かい合える信仰者で僕はいたい。

 

 

 

 

 

教会長交代時に配慮されるべき事!!

皆さんこんにちは!!

 

今回のテーマは「教会長交代時に配慮されるべき事」です。よろしくお願いします。

 


教会長交代は前任教会長、新任教会長はもちろんの事、その教会に繋がるよふぼく、信者の方々にとっても、とても大きな節目ですよね。

 


前任者、新任者、教会役員などの人たちは、講習会やお運びなど、それに向けてやるべき事が盛りだくさんなので、比較的心の準備をする期間があり、実感も湧きやすいと思います。それに比べて、その他のよふぼく、信者の方々は、それに向けてやるべき事があまりなく何処他人事のような感じになりがちなのではないかと思います。

 


しかし、この大きな節目を円滑にする為にはそういう方々の意識的転換はとても大切だと思います。なので、今回は、僕の経験からこうした方が円滑な節目にできるんじゃないかな?と思う事をシェアしていきたいと思います。

 


まず、大切だなぁと思った事は引き継ぎです。これは当たり前過ぎるほど当たり前な要素なんですが、意外と引き継ぎがなあなあになってたり、前任者から全く引き継ぎがないケースも多いのではないかと思います。

 


現に僕が教会長になった時、前任者は僕の祖母だったのですが、引き継ぎは全くありませんでした。まぁ引き継ぎがなくても何とかなるといえばなりますが、あった方が新任者の負担はかなり軽くなると思います。なのでこれから交代される方々は、新任者の方にしっかりと引き継ぎをしていただけたらと思います。引き継ぎが教会長としての最後にやるべき仕事なんじゃないかなと思います。

 


中には、交代したにも関わらず、新任者に教会運営に必要な通帳や書類を渡さない方々もいるようですが、法人名義のものは、個人のものではなく、教会のものなので、任が解かれれば速やかに新任者の手に渡らなければならないものだと思います。

 


続いて大切だなぁと事は、ある意味これが最も大切だと思うんですが、認識の転換です。お運びが終われば新任者が教会長です。これは凄く当たり前の事なんですが、教会に繋がるよふぼく、信者の方々は日頃の習慣から前任者が教会長という認識がなかなか転換されません。特に古参信者の方々はなかなかです。長い人は一年くらい、前任者を会長さんって呼ぶ人もいます。前任者を会長さん、新任者も会長さんって呼ぶから会長さんが二人居る事になるし、どっちに呼びかけてるか分からない時もあってややこしいですよね。長年の習慣を一気に変えるのはなかなか難しいと思いますが、何とか努力して出来るだけ早く変えてあげてほしいと思います。

 


まぁこの現象の大きな要因は前任者と新任者が教会で同居するケースが多い事だと思います。教会それぞれに状況が違うのでなかなか難しいと思いますが、僕はベストな解決方は前任者が教会から出る事だと思います。出来ない場合は、相当配慮してあげないと新任者はやりづらいと思います。

 


たまに我、覇者なりみたいな顔で教会に君臨する前任者の話しを耳にする事がありますが、そもそも教会長は覇者ではないですし、ましてやもう任は解かれているわけですから出来るだけ早く勘違いに気づいてほしいと思います。

 


余談ですが、前任者を親会長や前会長と呼ぶ習慣も僕はどうかと思います。前任者に役職名を付ける必要はないと思います。敬われるべき存在ではありますが、教会の芯はあくまで教会長なので、変に誤解を生むような呼び方はしない方がいいんじゃないかなぁと思います。

 


以上が僕の経験から思った、教会長交代時に配慮されるべき事です。

 


最後に、これはちょっと生々しい話しになりますが、教会長になるのってかなりお金が掛かるんですよね。系統によって大分差があるみたいですけど、僕の時はちょっと引くくらい掛かりました。それは教会に繋がるよふぼく、信者の方々の真実で賄われます。僕たち教会長はそういう真実の上に教会長の任を任されているわけですから、その事を心に刻んで常に陽気で明るい教会の芯であれるよう尽力するべきだと思います。

 


寄り来る人たちみんながハッピーになれるような教会をお互い目指したいですね。