離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

いんねんについての考察!!

 

今回は、いんねん という概念に対する悟りが大分深くなってきている感じが最近するので、現在の思考を整理する為の言語化として備忘録に綴ります。

 

よろしくお願いします。

 

※あくまで個人の見解です。

 

教内では、いんねん には良いいんねん 悪いいんねん があると認識している人が多いと思います。僕も最近までそのように認識していました。しかし、本当にその認識でいいのでしょうか?

 

親神様は人間の陽気ぐらしをするのを見て楽しみたいと思い、この世界と我々人間を御創造されました。陽気ぐらしをする為に悪いいんねんという要素が果たして必要なのでしょうか?悪いいんねんがある事で苦しみ悩んでいる。そういう人を僕は今まで何人も見てきました。

 

陽気ぐらしをする状が親神様の望みなのであれば、いっその事悪いいんねんは必要無いのではないかと思うのです。

 

この疑問を思案する時、やはり「かしもの、かりもの」の教理がキーになるのではないかと思います。

 

親神様は人間を創るにあたって、身体を借すというシステムを採用しています。そして、心は自由に使う事ができるようにしています。人間は心で身体をどう使うかを自由に決めて使う事ができる。これが所謂かしもの、かりものの教理です。

 

心が自由という事は必ずしも陽気ぐらしの為に使うとは限らないというリスクを伴います。なので身体は借すというシステムにして主導権が親神様にある状態にしているのだと思います。陽気ぐらしに反する使い方をすると身体に注意や警告を発せられるように。

 

この注意や警告は人間の心遣いの間違いに対して発せられていて、その心遣いを反省する手掛かりとして教えられているのが八つの埃です。

 

このシステムに込められた親神様の思いは自主性だと理解します。つまり、人間が自ら自主的に親神様の望まれる陽気ぐらしをする状を見たいという思いが込められていると理解します。

 

人間は魂に身体を借りています。この魂は消滅する事はなく、身体を借りては返すを繰り返しながら、この世界に留まり続いています。これが出直しの教理です。

 

僕は魂は心の核だと理解します。心の原動力となる核。心と魂は別々のもので、その別々のものが一つになる事で機能しているのだと考察します。喩えるなら、心がiPhone で魂がSIM カードみたいな、そんなイメージです。

 

魂は陽気ぐらしをする為に創られたものですが、元々は何にも染まってない只々純粋無垢なものだったのではないかと推察します。その純粋無垢な魂を人間の心遣いによって自らの力で陽気ぐらしのできる魂に成人させてほしいというのが親神様の思いではないかと推察します。

 

しかし、その真実を知らない人間は生まれかわりを繰り返す間に陽気ぐらしに反する心遣い(八つの埃)をも使ってしまい、埃が積もり重なり、核である魂にまで浸透して汚れてしまい、陽気ぐらしできない状態になっている。この状態になるといくら心の埃を払っても核である魂までは浄化されない。

 

そこでこの魂の汚れを自覚させ、浄化させる為に見えてくる姿が、巷で言われる所謂悪いいんねんの姿なのではないかと思案します。

 

八つの埃も巷で悪いいんねんと認識されているものも、共通しているのは成人の為の要素であるという事だと思います。ただ八つの埃は成人させる対象が心であり、悪いいんねんと認識されているものは成人させる対象が魂である。こう考えるとき、僕たち人間が悪いいんねんの姿だと思っているものは、魂を成人させる為には必要なものであり、陽気ぐらしの為のいんねん、つまり、元のいんねんによるものになるのではないかと考察できます。

 

結局、良いいんねんとか悪いいんねんとかという仕分けは人間が勝手にしているものであって、見えてくる姿は全て陽気ぐらしの為の元のいんねんによるものではないかと思えます。

 

また、僕は、魂の汚れが心に滲んで浮き出たものが癖、性分なのではないかと思っています。癖、性分が心を侵食して埃を誘発する呼び水的な役目をしているのではないでしょうか。八つの埃の要素は人生をより良くする要素、つまり、陽気ぐらしに必要な要素でもあると僕は考えます。それが癖、性分により埃になりやすい心の状態になっているのではないかと考えます。

 

世界は人間の心通りの姿が見えてくるようになっています。いんねんの姿の元は埃で、埃の元は癖、性分となり、結局、僕たちが見ている世界は、自分の癖、性分の姿ではないかと思えてきます。その癖、性分も元々は埃であり、結局は埃を払う事が陽気ぐらしに繋がるというとてもシンプルな所に着地します。

 

心の成人とは癖、性分をとる事で、癖、性分をとる事が埃を払拭する事になり、魂の成人に繋がる。そして癖、性分をとる行いこそ、たんのうだと思います。

 

心の成人は陽気ぐらしの為の今世の課題で、魂の成人は生まれかわる中で段々と達成される課題なのではないかと思えます。

 

今回はいんねんについて考察しました。結論としては、良いいんねんとか悪いいんねんは人間が勝手に創った概念、という所に着地したわけですが、ここでどうしても解決しなければならない矛盾が発生してしまいました。実は逸話篇に白いんねん悪いんねんという表現がされているものがあったのです。

 

天理教教祖傳逸話篇九〇【一代よりニ代】

 

明治十四年頃、山沢為造が、教祖のお側へ寄せて頂いた時のお話に、

「神様はなあ、『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている。』と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。」

 と、かようなお言葉ぶりで、お聞かせ下さいました。

 

普通に読んだら、いんねんには白(良い)いんねんと悪いんねんがあって、代を重ねる毎に悪いんねんが白いんねんになるという解釈になるのではないかと思います。でもこれだとちょっと短絡的過ぎる感じもしなくもないです。

 

それでは今回の僕の着地地点からこの逸話篇を解釈していきたいと思います。

 

※あくまで個人の解釈です。

 

『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている。』

 

この下りは、親を引き寄せたという事はその子供達も引き寄せているという事だよ。という事だと推察します。

 

一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。

 

この下りは、血統的な代という解釈もできますが、僕は一人の人間が生まれかわる中で段々と成人して陽気ぐらしの理が深くなっていき、末代の理、つまり陽気ぐらしができる魂になるという事だと推察します。

 

人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。

 

この下りは、人それぞれの今世の心によって、一代で成人できる者もあれば、ニ代、三代と生まれかわらないと成人できない者もある。また、それ以上の者もある。成人していけば、悪いいんねんと思うような事でも白いんねん(成人に必要ないんねん)だと理解できるようになるという事だと推察します。

 

今回はいんねんについて考察していきました。これはあくまで個人の解釈ですが、誰かの成人の一助になれば幸いです。

 

ありがとうございました。