離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

出直しの世界観!!

皆さんこんにちは!!

 

久しぶりに備忘録を更新します。

 

今回のテーマは「出直しの世界観」です。

 

*注)あくまで個人的解釈による見解です。

 

よろしくお願いします。

 

天理教では人生の終焉をではなく出直しと説きます。これは終わりはではなく新たなはじまりという事だと思います。

 

天理教では身体かりものと説きます。神様からお借りしているもの。それが身体。ではその身体をお借りしているものは何なのか?これについては幾らかの解釈があると思いますが、僕はと解釈します。

 

は滅っしない存在。そしてその身体をお借りして、僕たちは人生を営んでいる。借りているものはいつかは返す日がくる。しかしはこの世に留まり、いつかまた身体をお借りする日がくる。これが出直しの世界観であると思います。

 

ある魂が身体をお借りして、この今という時代をとして生きています。なのではありません。ある魂と今世でお借りした身体僕(心)です。僕はそう解釈しています。

 

天理教はこの世界観をベースとして物事を見たり判断します。

 

この世界は理不尽に満ちています。環境、境遇、容姿。理不尽な事を挙げればキリが無いでしょう。しかし、今世だけを見て理不尽と感じる事でも、出直しの世界観で考えれば、それは理不尽な事では無いのかもしれません。

 

例えば今世、容姿端麗なAさんという人生を生きる魂は、容姿がイマイチだったBさんという人生を生きていた可能性がありますし、今世、お金持ちな家庭で生まれ育ったC氏の魂は、貧乏な家庭で生まれ育ったD氏という人生を生きていた可能性があるからです。

 

おさしづに

 

理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。

 

明治二十五年一月十三日 午後五時半

 

という一節があります。

 

環境も境遇も容姿もそれぞれの魂に丁度良いものを神様は与えられています。それは今世の中だけの事ではなく、出直しの世界観の中に於いても言える事だと思います。

 

僕たちの人生は今世で終わります。しかし、僕たちとして生きた魂は違う誰かとして再びその人の人生を生きる事になります。僕たちのこの今世での生き方が、に刻まれ、その魂が来世に生きる誰かの人生に影響を与える事になります。それは、僕たちの孫なのかもしれないし、ひ孫なのかもしれないし、全く違う誰かかもしれません。

 

ただ一つ確かな事は、今世の僕たちの生き方がその誰かの人生に与えるものは大きいという事です。

 

将来、子々孫々の世界を良きものにしたいなら、今、自分として生きている今世を未来の世界が良きものになるような生き方をしなければいけないと思います。

 

神が連れて通る陽気と、めん/\勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん。陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。めんめん勝手の陽気は、生涯通れると思たら違うで。

 

おさしづ 明治三十年十二月十一日より抜粋

 

後々の者が陽気に暮らせる通り方をお互いにしたいものですね。