分かち合う人へ!!
皆さんこんにちは!!
もうすぐは〜るですねぇ
恋をしてみませんか〜
寒波の到来に僕の身にも心にもまだまだ春は来そうにないと感じる男!!
離島の働く教会長です!!
先日、ほこりまみれさんのラジオを聴きました。題して天理教で人生を攻略するラジオ!!
テーマは《人に物を盗られる喜び》
何とも斬新なテーマです。内容も凄く面白かったので興味のある方は是非聴いてみて下さい。
リンクを貼っておきます。
https://note.com/jinsei_kose/n/ne26cc6451453
このラジオを聴いていて、内容はとても面白かったのですが、考え方や解釈は《僕とは違うな〜!!》と思ったので、今回は僕の現時点での考え方や解釈を備忘録として綴る事にします。
※ この記事はほこりまみれさんのラジオを否定するものでも、僕の考え方や解釈が正しいと主張するものでもありません。考え方や解釈は逸脱しない限り、どんなものがあってもいいと思います。なので、一つの考え方としてご理解いただければ嬉しいです。それでも私は熱狂的ほこりまみれ信者だという方はここでこのブログをそっと閉じる事をお勧めします。
天理教教祖傳逸話篇
【39 もっと結構】
明治七年のこと。西浦弥平の長男楢蔵(註、当時二才)が、ジフテリアにかかり、医者も匙を投げて、もう駄目だ、と言うている時に、同村の村田幸四郎の母こよから、にをいがかかった。
お屋敷へお願いしたところ、早速、お屋敷から仲田儀三郎が、おたすけに来てくれ、ふしぎなたすけを頂いた。
弥平は、早速、楢蔵をつれてお礼詣りをし、その後、熱心に信心をつづけていた。
ある日のこと、お屋敷からもどって、夜遅く就寝したところ、夜中に、床下でコトコトと音がする。「これは怪しい。」と思って、そっと起きてのぞいてみると、一人の男が、「アッ」と言って、闇の中へ逃げてしまった。後には、大切な品々を包んだ大風呂敷が残っていた。
弥平は、大層喜んで、その翌朝早速、お詣りして、「お蔭で、結構でございました。」と、教祖に心からお礼申し上げた。すると、教祖は、
「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」
と、仰せになった。弥平は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、という。
では先ず解釈の違いから。
ほこりまみれさんはラジオの中で上記の逸話から喜んで人に物を盗られる事を神様は喜ばれるという解釈をしていたと思うんですけど、僕はこの逸話だけで、そう解釈するのはちょっと無理があるように思います。そう思える程おやさまが放った御言葉に含みや曖昧さを感じるからです。
「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」
この御言葉は余白が多いですよね。つまり、これは思案を促す意味で放たれた御言葉であって、この御言葉の表面的に意味する事がおやさまが本当に言いたかった事ではないと僕は推察します。
実はこれとほぼ同じシチュエーションでおやさまの対応が全く異なる逸話があります。
天理教教祖傳逸話篇
【114 よう苦労してきた】
泉田籐吉は、ある時、十三峠で、三人の追剥に出遭うた。その時、頭にひらめいたのは、かねてからお仕込み頂いているかしもの・かりものの理であった。それで、言われるままに、羽織も着物も皆脱いで、財布までその上に載せて、大地に正座して、「どうぞ、お持ちかえり下さい。」と言って、頭を上げると、三人の追剥は、影も形もない。余りの素直さに、薄気味悪くなって、一物も取らずに行き過ぎてしもうたのであった。そこで、泉田は、又、着物を着て、おぢばへ到着し、教祖にお目通りすると、教祖は、
「よう苦労して来た。内々折り合うたから、あしきはらひのさづけを渡す。受け取れ。」
と、仰せになって、結構なさづけの理をお渡し下された。
シチュエーションはちょっと違うけど、自分の物を盗られそうになった、けど盗られなかったという内容は同じです。でもおやさまの対応は全然違いますよね。
西浦弥平さんと泉田籐吉さん。この二人の違いは何だったのか?それは心ですよね。盗られる事を阻止しようとして盗られなかった事を喜んだ弥平さん。盗られる事を受け入れて差し出した藤吉さん。この二人の心の動きの核となる要素はかしもの、かりものの教えが心に治っていたか、いなかったかであると思います。
おやさまが弥平さんに放たれた
「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」
という言葉。これは盗られなかった事が結構ではないという事ではないと思います。盗られなかった事はそれはそれで結構やった。でもほしい人に貰ってもらった方がもっと結構やないかという事だと思います。この場合、盗られた、盗られてないというところはそんな問題ではなくて、自分の物を盗られなかった弥平さんのその喜ぶ心を戒められた言葉なのだと思います。
「その心遣いは違うで、そうやないで」
という事だと僕は解釈します。
次に考え方ですが、ほこりまみれさんはラジオの中で、世の中には、
Taker(テイカー)
自分の利益を優先させる人。与えるより受け取る方が多くなるように行動する。
Giver (ギバー)
自己犠牲を払ってでも他人に対し惜しみなく与える人 ⇒見返りを求めない
Matcher (マッチャー)
損得のバランスを考える人。相手によって自身のスタンスを変える。
の三種類の人間がいると言っていました。このTaker,Giver,Matcher は心理学用語ですよね。
心理学では最も豊かな人生を送れるのは、Giver だとされています。しかし、自己犠牲を伴うgiveは他人(ひと)に侮られやすく逆に人生の質が落ちるとされていて、自己犠牲を伴わない程度に与えるのが最も人生を豊かにするとされています。
ほこりまみれさんはこの定説を覆して、自己犠牲を伴っても与える事が最も人生を豊かにするんだと主張されてました。
これは僕の考え方ですが、そもそも天理教の思想の中では、Taker,Giver,Matcher という概念は成立しないと思っています。それはその概念に自分のものという前提の思考があるからです。かしもの、かりものという思考が前提にある天理教を、Taker,Giver, Matcher という概念を当てはめて説明するのは無理があると思います。自分のものではないものを与える事も奪う事もできないからです。
もちろん分かりやすく説明する為に敢えてそういう表現を用いたという事は理解しています。
かしもの、かりものの世界で僕たち人間が出来る事はただ一つ、Share(シェア) 《共有》です。僕たち人間は借し与えられているものを共有する事しかできないと思います。
この共有において《如何に惜しみなく共有できるか》が、人生を豊かにするポイントであると思うし、お道の教えを知っている者たちが目指すべきところだと僕は思います。
僕たちはTaker でもGiver でもMatcher でもなく、どこまで惜しみなく共有できるSharer (シェアラー)を目指すべきなのではないかと思います。
ただこのかしもの、かりものの教理を心に治めるのは並大抵ではないと思います。藤吉さんは心に治っていたからこそ咄嗟の出来事においてもその実践ができたのでしょう。おやさまはそんな藤吉さんに
「よう苦労して来た。内々折り合うたから、あしきはらひのさづけを渡す。受け取れ。」
と労いの御言葉に加え、おさづけの理までお渡しになっています。如何に藤吉さんが日々おやさまの御言葉を実践し、心の成人に努力されていたかが推察できるエピソードであると思います。
僕もおやさまに《よう苦労してきた》と労ってもらえるような分かち合う人を目指して日々精進です。
終
御守護!!
「御守護をいただく」
教内で良く耳にする言い回しだ。この場合の御守護とは望み通りに成ったという意味で十中八九間違いないだろう。
身上の障りを御守護いただくの意味は病気の平癒を意味するし、事情を御守護いただくは問題が思い通りに解決した時に使われる。
人間は誰しも自分の思い通り事が運ぶことを望む。誰だって自分の思い通りに事が運べば嬉しい。だからどうすれば自分の思い通り事が運ぶのかを考える。だから徳を積もうとするし、理に沿う努力をする。全ては人生を自分の思い通りにしたいから。
もちろん、そうじゃない人も一定数はいる。それでも圧倒的に自分の思い通りの人生を送りたい人が多い。
自分の望み通りに成ってきた姿は御守護でそれ以外は御守護ではない。この認識は正解なのだろうか。
答えは否である。これは断言してもいい。
何故ならば、御守護なくして、この世界は存在し得ないからである。この世界で起こる全ての事象は御守護の中で起きているという事が大前提にあるのだ。
昨年から猛威を振るう新型コロナウイルス。このウイルスの蔓延により、人間の生活は一変した。しかしながら、この事象も御守護の中で起こっている。これは紛れもない事実で、決して揺るがない。
この新型コロナウイルスの蔓延は、人間には非常に都合の悪い事象である。しかしながら、世界(天然、自然)の生態系を揺るがすものかと言われれば、答えは否である。
自然界にしてみれば、この新型コロナウイルスの蔓延は長い歴史の中で起こった一つの出来事に過ぎない。そこには善も悪もない。それを悪い出来事にしているのは、人間の認識である。何故ならそれは、人間にとって都合の悪い事だからである。
人間が今、気づくべき事は、大前提であると思う。人間が存在しているという事においての大前提。人間はこの世界(地球)がなければ生きていけない。それが大前提である。人間がこの世界を創ったのではない。この世界の長い歴史の中で人間という生物が誕生した。これが大前提なのである。
人間は、知的で高度な技術を有し、素晴らしい文明を築いた。故に、存在している事においての大前提を忘れている人達は多い。
しかしながら、人間は御守護無くして生きていけない。この世界で起こる全ての事象が御守護の中で起こっている。であるなら、その御守護の中で、自分たちの領分を弁え、ベストを尽くしていくしかないと思う。
ただ収束や終息を望むばかりではなくて、この事象が起こっている世界の中で自分たちが何を考え、どうすべきなのかに重きを置いて考え、行動すべきではないかと思う。
この事象も人間の成長には欠かせない御守護なのだろう。
新年の御挨拶!!
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
昨年は新型コロナウイルスの蔓延により、世界が例年とは違う在り方を求められた1年でした。そしてそれは本来どうあるべきなのか?を考えさせられた1年だったのではないかと思います。
本年も変異種の出現により、新型コロナフィーバーはまだまだ続きそうではありますが、皆さまにとってこのコロナ禍が成長の糧となるよう祈ると共に、自分自身も成長の糧とできる生き方ができるよう、努力したいと思う今日この頃です。
今年の抱負は、人畜無害!!
プリっと一皮剥けた、地球にも人間にも優しい男を目指します。
そしてわたくし。。。
2021年。。。
結婚します!!!
という事で結婚相手を随時募集しております。
自薦他薦は問いません。
私、と《恋をしてもいいよ♡》という方、こちらの宛先までメッセージをください。
沢山のご応募、お待ちしております。
それでは本年も1年、どうぞよろしくお願い致します。
凡才という才能!!
この世界には二種類の人間しかいない。
天才か凡才である。
どちらが凄いのか?
この問いは極めて愚問だ。何故ならばどちらも世界には必要でどちらが欠けても世界は成立しないからである。
しかしながら昨今、持て囃されるのはもっぱら天才だけである。
天才と凡才の違い。それは0から1を生み出せるか、出せないかだろう。
最近は0を1にできる人たちをカリスマなんて呼んだりする。そのカリスマだけで世界が成立するのかと問われれば答えは否である。
寧ろカリスマなんて呼ばれる輩は一つのコミュニティーに一人で充分である。
確かにカリスマと呼ばれる人たちは優れている。想像力、行動力、人間的魅力。だから0を1にできるのであるが、結局、1止まりである。0を1にするには確かに大きな労力を有するが、人一人ができる事は結局のところ1が限界だ。
その1を100や200、それ以上に昇華するには、多くの人々の協力が不可欠である。
世界を創ってきたのは天才たちなのかもしれない。しかし世界を回しているのは凡才たちである。だからこそ、どちらも必要で尊い存在なのだ。
人間は自分に無いものを望む。故に希少である天才が持て囃される。圧倒的に多い凡才がその才能を羨望するからである。
しかし凡才は天才にはなれなし天才も凡才のようには生きられない。ならばすべき事はお互いを尊重し、協力する事であろう。
とは言っても、特別な存在というステータスに人間は弱い。誰もが自分が特別でありたいのだ。
故に凡才は天才に憧れ、近づこうと努力する。平凡を憂い、非凡を望む。
しかし、凡才が圧倒的に多い世の中で天才をクローズアップしたところで得るものは少ない。何故なら、凡才は天才になれないからである。
天才には天才の生き方があり、凡才には凡才の生き方がある。
この相容れない生き方が調和するからこそ、世界は成立するのだ。
凡才が天才になろうとする必要はないし、どこまで行っても凡才は凡才である。ならば凡才である事を極めればいい。極めれば天才すら凌駕すり大きな才能になるだろう。
天才が増えすぎると調和を保つのは難しい。単独である程度の事を成立させる才能があるからである。そして現代社会は天才を求め過ぎている。故に、世界はバランスを保て無くなってきている。
今という時代だからこそ凡才という才能をもっとクローズアップすべきではないかと思う。
天才の必要度は思いのほか低い。
終
いんねんについての考察!!
今回は、いんねん という概念に対する悟りが大分深くなってきている感じが最近するので、現在の思考を整理する為の言語化として備忘録に綴ります。
よろしくお願いします。
※あくまで個人の見解です。
教内では、いんねん には良いいんねん と悪いいんねん があると認識している人が多いと思います。僕も最近までそのように認識していました。しかし、本当にその認識でいいのでしょうか?
親神様は人間の陽気ぐらしをするのを見て楽しみたいと思い、この世界と我々人間を御創造されました。陽気ぐらしをする為に悪いいんねんという要素が果たして必要なのでしょうか?悪いいんねんがある事で苦しみ悩んでいる。そういう人を僕は今まで何人も見てきました。
陽気ぐらしをする状が親神様の望みなのであれば、いっその事悪いいんねんは必要無いのではないかと思うのです。
この疑問を思案する時、やはり「かしもの、かりもの」の教理がキーになるのではないかと思います。
親神様は人間を創るにあたって、身体を借すというシステムを採用しています。そして、心は自由に使う事ができるようにしています。人間は心で身体をどう使うかを自由に決めて使う事ができる。これが所謂かしもの、かりものの教理です。
心が自由という事は必ずしも陽気ぐらしの為に使うとは限らないというリスクを伴います。なので身体は借すというシステムにして主導権が親神様にある状態にしているのだと思います。陽気ぐらしに反する使い方をすると身体に注意や警告を発せられるように。
この注意や警告は人間の心遣いの間違いに対して発せられていて、その心遣いを反省する手掛かりとして教えられているのが八つの埃です。
このシステムに込められた親神様の思いは自主性だと理解します。つまり、人間が自ら自主的に親神様の望まれる陽気ぐらしをする状を見たいという思いが込められていると理解します。
人間は魂に身体を借りています。この魂は消滅する事はなく、身体を借りては返すを繰り返しながら、この世界に留まり続いています。これが出直しの教理です。
僕は魂は心の核だと理解します。心の原動力となる核。心と魂は別々のもので、その別々のものが一つになる事で機能しているのだと考察します。喩えるなら、心がiPhone で魂がSIM カードみたいな、そんなイメージです。
魂は陽気ぐらしをする為に創られたものですが、元々は何にも染まってない只々純粋無垢なものだったのではないかと推察します。その純粋無垢な魂を人間の心遣いによって自らの力で陽気ぐらしのできる魂に成人させてほしいというのが親神様の思いではないかと推察します。
しかし、その真実を知らない人間は生まれかわりを繰り返す間に陽気ぐらしに反する心遣い(八つの埃)をも使ってしまい、埃が積もり重なり、核である魂にまで浸透して汚れてしまい、陽気ぐらしできない状態になっている。この状態になるといくら心の埃を払っても核である魂までは浄化されない。
そこでこの魂の汚れを自覚させ、浄化させる為に見えてくる姿が、巷で言われる所謂悪いいんねんの姿なのではないかと思案します。
八つの埃も巷で悪いいんねんと認識されているものも、共通しているのは成人の為の要素であるという事だと思います。ただ八つの埃は成人させる対象が心であり、悪いいんねんと認識されているものは成人させる対象が魂である。こう考えるとき、僕たち人間が悪いいんねんの姿だと思っているものは、魂を成人させる為には必要なものであり、陽気ぐらしの為のいんねん、つまり、元のいんねんによるものになるのではないかと考察できます。
結局、良いいんねんとか悪いいんねんとかという仕分けは人間が勝手にしているものであって、見えてくる姿は全て陽気ぐらしの為の元のいんねんによるものではないかと思えます。
また、僕は、魂の汚れが心に滲んで浮き出たものが癖、性分なのではないかと思っています。癖、性分が心を侵食して埃を誘発する呼び水的な役目をしているのではないでしょうか。八つの埃の要素は人生をより良くする要素、つまり、陽気ぐらしに必要な要素でもあると僕は考えます。それが癖、性分により埃になりやすい心の状態になっているのではないかと考えます。
世界は人間の心通りの姿が見えてくるようになっています。いんねんの姿の元は埃で、埃の元は癖、性分となり、結局、僕たちが見ている世界は、自分の癖、性分の姿ではないかと思えてきます。その癖、性分も元々は埃であり、結局は埃を払う事が陽気ぐらしに繋がるというとてもシンプルな所に着地します。
心の成人とは癖、性分をとる事で、癖、性分をとる事が埃を払拭する事になり、魂の成人に繋がる。そして癖、性分をとる行いこそ、たんのうだと思います。
心の成人は陽気ぐらしの為の今世の課題で、魂の成人は生まれかわる中で段々と達成される課題なのではないかと思えます。
今回はいんねんについて考察しました。結論としては、良いいんねんとか悪いいんねんは人間が勝手に創った概念、という所に着地したわけですが、ここでどうしても解決しなければならない矛盾が発生してしまいました。実は逸話篇に白いんねんと悪いんねんという表現がされているものがあったのです。
天理教教祖傳逸話篇九〇【一代よりニ代】
明治十四年頃、山沢為造が、教祖のお側へ寄せて頂いた時のお話に、
「神様はなあ、『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている。』と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。」
と、かようなお言葉ぶりで、お聞かせ下さいました。
普通に読んだら、いんねんには白(良い)いんねんと悪いんねんがあって、代を重ねる毎に悪いんねんが白いんねんになるという解釈になるのではないかと思います。でもこれだとちょっと短絡的過ぎる感じもしなくもないです。
それでは今回の僕の着地地点からこの逸話篇を解釈していきたいと思います。
※あくまで個人の解釈です。
『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている。』
この下りは、親を引き寄せたという事はその子供達も引き寄せているという事だよ。という事だと推察します。
一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。
この下りは、血統的な代という解釈もできますが、僕は一人の人間が生まれかわる中で段々と成人して陽気ぐらしの理が深くなっていき、末代の理、つまり陽気ぐらしができる魂になるという事だと推察します。
人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。
この下りは、人それぞれの今世の心によって、一代で成人できる者もあれば、ニ代、三代と生まれかわらないと成人できない者もある。また、それ以上の者もある。成人していけば、悪いいんねんと思うような事でも白いんねん(成人に必要ないんねん)だと理解できるようになるという事だと推察します。
今回はいんねんについて考察していきました。これはあくまで個人の解釈ですが、誰かの成人の一助になれば幸いです。
ありがとうございました。
優しい男はエロい説!!
皆さんこんにちは!!
めっきり寒くなり、冬の訪れを感じずにはいられない今日この頃。如何お過ごしですか?
離島の働く教会長です!!
最近、20代〜30代前半の人達とのジェネレーションギャップを突きつけるられる出来事があり、僕ももう若く無いんだな〜としみじみ思っています。
今年ももうすぐ終わり。一年なんか「あっ!」と言う間です。このままのスピードで世界が進んだら、「あっ!」と言う間にジジイになってしまう。。。
という危機感に苛まれながら、よぼよぼになる前に何かしらの爪痕を残したと息巻きつつ、実際は、押し寄せてくる現実を捌くのに手一杯で、進みたい方向に進めないジレンマを抱えながら、大丈夫、大丈夫。と自分に言い聞かせて、何とか正気を保っている今日この頃です。
僕ももうすぐ40歳。まさかこんな歳になるまで結婚できないとは思っていませんでした。離島くんならすぐ結婚できるよ。と言われ続けて何年の月日が流れたでしょか?もしタイムスリップが出来るなら、自分に言ってあげたい。
「騙されるな、唆されるな。お前はそんな簡単に結婚なんかできない。これから何年も何十年も彼女おらんのか?とかいつ結婚するんだ?とか女に興味ないの?とか、そんな罵詈雑言を無責任な奴らに浴びせられる日々が待っているんだぞ。いいか、これだけは言っておく。どんな事よりパートナーを探す事を最優先しろ。出逢いのチャンスはそう多くは無いぞ!!」
と。。。
さて今回は、僕の偏見シリーズをお届けします。題して「優しい男はエロい説!!」です。
題名はかなりふざけてますが、書いてる本人は糞がつくほど真面目に書いています。
※尚、この記事には不適切な表現が含まれております。ご了承の上、お読みください。
それではよろしくお願いします。
先ず断言します。優しい男は100%エロいです。これは紛れもない事実です。優しければ優しいほどエロさの純度も増していきます。
それは何故か?優しい男は真面目で誠実だからです。そして他人の喜びを自分の喜びにできる献身性を持っています。これは全ての分野において言える事です。もちろん性的な面においても。つまり、SEXにおいて、パートナーが気持ち良くなる事により彼らの性的興奮度は上がっていくと言う事です。これを変態と言わずして何を変態と言うのでしょう。優しい男たちはSEXにおいてはドSです。
SEXをすれば、優しいか、優しくないかは、かなりの高確率で判断できます。それはSEXが究極のスキンシップだからです。
前戯もそこそこに挿入しようとする奴は、確実に優しくはないです。ただ性欲が強いだけです。性欲が強い事とエロい事は違います。優しさが無ければエロくはなれません。
どんな事も経験はある程度必要ですし、少なからず相性という要因も影響は及ぼすので、単に下手だからだけで優しく無いとは言い切れませんが、SEXが上手い人は100%優しいと思って間違い無いです。
そしてハゲている人は確実にエロいです。
詳しくはこちらの記事をご覧ください。
https://captainace.hatenadiary.com/entry/2020/02/28/140258
SEXは愛の深さが如実に現れる行為です。愛の深さは優しさの深さでもあります。その行為を拒絶するまたは満足が得られ無い状態というのは、愛が無いまたは浅くなっていると言えると思います。
そして最後に衝撃の事実を。実はこの理論は女子にも当てはまります。
つまり、優しい女子は。。。
今回は僕の偏見シリーズ「優しい男はエロい説!!」をお届けしました。これは僕の偏見に染まり切った理論なので、正しいわけではないですが、かなり参考になる理論ではないかと自負しております。
最後に、不適切な表現の数々をお詫び申し上げて終わりとします。
ありがとうございました。
この糞ったれの世界で!!
この世に平等なんてものは無い。あるのは気持ち良い程、純粋な理不尽だけだ。この世の中は不条理だ。生まれる場所を環境を誰が決めた。親をきょうだいを誰が決めた。時代を誰が決めた。備わった才能を誰が選んだ。この世に存在できる時間を誰が決めた。分からない。誰かは神だといい、誰かは運命だというけど、そんなものはどっちだっていい。ただ確実なのは自分では決められない。その事実だけ。
僕たちは結果を選べない。選べるのは過程だけ。できるのは努力だけ。それを選んだところで望む結果を得られるとは限らない。努力したからといって報われるとは限らない。これを不条理と言わずして何を不条理と言えようか。
それでも僕たちは生きていかなければならない。命(じかん)が尽きるまで。この不条理な世の中で。理不尽を掻き分けながら。誰もその理不尽を代わりに掻き分けてはくれない。自分の力で掻き分けていくしかない。
この世は灰色だ。信じられるものなど皆無。あるのは信じるか信じないかの選択肢だけ。信じたものが白になり、信じなかったものが黒になる。自分が白にしたものにだけ自分が持ってる色を塗れる。でも持っている色の種類も数も違うから出来上がりは全部バラバラ。
子供の頃はよく「他人(ひと)の気持ちが分かる人になりなさい。」って言われたけど、大人になって思うのは、他人の気持ちなんてそんな簡単に分からないって事。だから人間は言語をあみだし、発達させてきたんだろう。何も言わない人の気持ちなんか分からないし、言った事が本当かどうかも分からない。仕草や行動である程度読む事はできるけどそれも正解かどうかは分からない。
たまに何も言わないのに「誰も自分を理解してくれない。」って言う人がいるけど、そんなの分からなくて当たり前。分かってほしいなら伝えないと。誰も代わりにあなたの気持ちを伝えてはくれない。自分の気持ちは自分で伝えるしかない。
子供の頃、入学式や卒業式で「君たちには無限の可能性がある。」なんて言葉をよく聞いたっけ。でも大人になって思うのは、「可能性なんて皆無だったんだな〜。」って事。子供の可能性なんて0%だよ。可能性はあるものじゃなくて創るものだから。何もしない人の可能性はどこまで行っても0%。結局大人は無責任なんだよね。いつの時代も根拠のない励ましをする。でもそれ止めた方がいいよ。誰の為にもならないから。
人間は所詮、自分第一だから。身内はともかく、他人に興味なんか殆ど無い。自分にメリットがある人以外には。天理教では人だすけをしましょうってよく聞くけど、それはそれをやれば自分がしあわせになれるって大前提があるから。もし人だすけしたら不幸になります。って言われたら誰も人だすけなんかしない。そんなの当然の事なのに「人をたすけるのは自分がたすかりたいからだ。最低だ。」なんて人がいるけど、人間そんなもんだよ。あなただってそんなもんでしょう。「そんな最低でもなんでも無い事を最低にするあなたが最低だよ。」と僕は言いたい。もういっちゃったけど。
とにかく言いたいのは「この世界は糞ったれだ」って事。でもそんな糞ったれな世界で一生懸命生きていこうとする人間はやっぱり尊い。だから生きていこう。愚直に。誠実に。どこまで。
終