離島の働く教会長の備忘録

天理教の信仰ブログです。

天理教の信仰者は陽気ぐらし出来ていると言えますか?

 

Twitter でこんなツイートが流れ込んできました。どうやらこのツイートをされた方は、信仰することと陽気ぐらしをする事を別ものと理解しているようです。

 

確かに天理教の信仰者が陽気ぐらしを出来ているのかというと疑問です。そもそも陽気ぐらしとは何なのでしょうか?人それぞれ解釈が違うであろうこの概念を基準に あの人は陽気ぐらしが出来ている。あの人はできていない。と判断する事が果たして可能なのでしょうか?

 

ただ明るく楽しく生きていく事が陽気ぐらしなのであればこれ程簡単な事はないでしょう。自分が明るく、楽しく生きていける環境や状況に身を置けばいいのですから。しかし、全人類がそんな生き方をしたら一体どうなるでしょう。僕は恐らく世界は無法地帯になると思います。

 

そもそも、自分が明るく楽しく生きていく一番の方法は 自分が好きな事だけやる。 という方法です。しかし、それでは世の中のバランスは保ってません。何故なら生きるという行為には自分が好きになれない事も含まれているからです。しかし、世の中には自分の好きな事だけやって生きている人もいます。しかし、そういう人たちは自分がやりたくない事を誰かにやって貰っている場合が殆どです。そしてそういう人たちの多くがその自覚がありません。

 

著名人や有名人がよく、自分の好きな事で生きていける。 なんて文句をよく使われますが、そんな事は不可能です。何故ならプロ野球選手を目指す野球少年が全てプロ野球選手にはなれないし、弁護士になりたい法学部の学生の全てが弁護士になれるわけでもないからです。

 

そうである以上、人生に付き纏うもの。それは 挫折 です。挫折は辛く、苦しいものです。でもだからこそ人は優しさや思いやりの心を育めるのだと思います。それが 成長する ということだと思います。

 

そう考えると辛く、苦しんでいるからといって 陽気ぐらしをしていない とは言い切れないでしょう。それは 陽気ぐらしの為の過程 であるかもしれないからです。しかしながら、教えをきいているお互いが歪み合う事で苦しむ事を肯定するわけではありません。お道の真髄は実行です。それを実行する事においての辛さや苦しみこそ 成長においての糧 と考えるべきだと思います。

 

お道の信仰がなくても陽気ぐらしはできるのでしょう。しかしその陽気ぐらしは 限られた人たちの為のもの ではないでしょうか?お道が目指す陽気ぐらしは 全ての人類の為のもの です。そしてそれは人間がイメージするそれとは 異質なもの であるような気がします。自然にその 境地 に辿り着ける人もいるのでしょう。全ての人間が陽気ぐらしをする為にそのいんねんを付けられて生まれくるのですから。しかし、全ての人類が自然に辿り着ける程単純な 境地 でもないはずです。そうでなければ、親神様がおやさまを月日のやしろに定められたのも、おつとめを教えられたのも、三原典を残されたのも、おやさまがひながたを通られた事も、全て意味の無いものになってしまうのですから。

 

全ては人類全てに できる限りはやく 陽気ぐらしをさせてやりたいという親心だと思います。ならば信仰することが親神様の思い描く陽気ぐらし世界を実現する最短の道であると思います。

 

人間の思い描く陽気ぐらしに信仰は必要ありません。しかし、親神様の思い描く陽気ぐらしには信仰は必要であると思います。そして、その 境地 を悟らせていただける歩みを進められる自分でありたいと思います。

 

あくまで個人の価値観です。

 

ご拝読ありがとうございました。